長門の存在証明

何かが存在するかどうかということを突き詰めて考えていくと、何も存在しないような結論に思い至ってしまう。例えば、いまこれを読んでいるあなたは、実は脳みそが取り出されてビーカーに保存されている状態にあり、その脳みそに刺された電極から刺激を受け取ってあたかもこの世界が存在しているように感じているだけかもしれない。古にはかのデカルトも同じようなことを考え、その結果、我思うゆえに我ありという有名な台詞を残した。

デカルトは次のように考えた。私が考えるということは、バーチャルかどうかはわからないがとにかく存在するということである。私は考えないようにしようとすればするほど、考えるということについて考えてしまう。よって私は考えるということであり、つまり、私は存在する。

俺の嫁問題

このように、存在するかどうかを突き詰めて考えていくとなかなか難しい問題にぶち当たる。例えば、長門俺の嫁(若干古いか)などと、存在しないはずのキャラクターに対してあたかも存在するように愛着を抱くことさえある。たしかに長門有希情報統合思念体であるため、我々の知らぬ間に至るところに偏在しているのかもしれない。しかし、それはあくまでも長門が存在するということを否定できないだけであり、その存在を証明するわけではない。

涼宮ハルヒの憂鬱 長門有希 (1/8スケールPVC塗装済み完成品)

涼宮ハルヒの憂鬱 長門有希 (1/8スケールPVC塗装済み完成品)

  • 発売日: 2007/07/30
  • メディア: おもちゃ&ホビー
 

ところで二次キャラ以外にも、実際に存在はしていないフィクションでバーチャルな存在はある。それは長門らと同じように完全にバーチャルな存在のはずだが、世の中の誰もがその存在を信じている。それは何かというと、1つは国でもう1つはお金である。

国は別に物理的法則によって存在しているわけではなく、人間が恣意的に想像したバーチャルの存在である。しかしあたかも人々は国というものが存在するかのようにふるまい、あまつさえ国が原因で殺し合いまでしてしまう。お金も同じで高々紙切れ、電子データになにか価値があるかのように皆が振る舞っている。

国、お金、これらは完全にバーチャルな存在であるのに、あたかも実在するかのように皆が考えているため、これはもう実在すると言ってよいのではないだろうか。とすると、同じ理屈で長門も存在すると言ってよいのではないだろうか。いや、これはもう存在する。間違いない。

フィクションのお断り

いやしかし、流石に長門が実在するとはちょっと受け入れがたい。長門も国もお金もやはり仮想的な存在ではないだろうか。

ところで、作り話に対するよくある断りとして、「この作品はフィクションであり実在の団体及び人物とは一切関係がありません」という文章があるが、実在の人物というのはわかるが、実在の団体とは一体何を意味しているのだろうか。団体とは国と同じで極めて恣意的でバーチャルな存在なので実在の団体という文言はおかしいのではないか。

ということはやはり、国やお金は存在すると考えるしかないだろう。当然長門も存在する。でもちょっと待てよ、とすると作中の団体、例えばSOS団も実在するということにはならないだろうか。そう考えると、「実在の団体とは関係ありません」が何を言わんとしているのかますますわからなくなってしまう。SOS団は実在するし関係あるだろ。
実在とは一体…ウゴゴゴ…

というような感想を以下の本を読んで抱いた。

日常世界を哲学する 存在論からのアプローチ (光文社新書)

日常世界を哲学する 存在論からのアプローチ (光文社新書)

  • 作者:倉田 剛
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2019/08/20
  • メディア: 新書
 

2019年総括

2019年はずっと講義と演習の準備を行っていたように思う。それでも、合間に1、2ヶ月程度は時間があったため言語処理系の実装もすすめていたが、やはりそれほど進まなかった。講義準備以外にも雑用がジャカジャカふってくるため、きついもんがある。さらに、正直、有意義とは言えないような出張も多くあるためになかなか厳しい。しかし、これはもうしょうがないだろう。

2019年の研究成果

2019年の研究成果だが、結果的に、ジャーナル1本、国際会議論文1本、国内研究会4本となった。

ジャーナル
  • Yuuki Takano, Ryosuke Miura, Shingo Yasuda, Kunio Akashi, and Tomoya Inoue, "Design and Implementation of a Scalable and Flexible Traffic Analysis Platform", 日本ソフトウェア科学会学会誌『コンピュータソフトウェア』, Vol.36, No.3 (2019), pp.85-103, 2019/8
国際会議
  • Nobuyuki Kanaya, Yu Tsuda, Yuuki Takano, Daisuke Inoue, "Byakko: Automatic Whitelist Generation based on Occurrence Distribution of Features of Network Traffic", IEEE Workshop CyberHunt 2019, 2019/12
国内研究会
  • 宮地 充子、高野 祐輝、河内 亮周、中正 和久、"プライバシーを保護した多機関データ突合システムについて", 第39回医療情報学連合大会、2019年11月
  • 金谷 延幸、津田 侑、高野 祐輝、井上 大介、"サイバー攻撃観測における対象ネットワーク特化型ホワイトリスト作成手法の提案"、情報処理学会 コンピュータセキュリティシンポジウム 2019 (CSS 2019) 論文集、2019年10月
  • 竹中 幹、高野 祐輝、宮地 充子、"Deceptionネットワークを構成するフレームワークの提案"、Computer Security Group (CSEC2019-03), IPSJ SIG Tech. Rep, Vol. 2019-DPS-178(5),1-7, 2019年2月
  • 金谷 延幸、津田 侑、高野 祐輝、井上 大介、"サイバー攻撃観測のモデル化とデータ生成・変換手法"、暗号と情報セキュリティシンポジウム 2019 (SCIS 2019)、2019年1月

ジャーナル論文は、2015年にUSENIX LISA 2015で発表した内容の発展版で、論文の内容的には2017年にはほぼ出来ていたのだが、なかなか時間がかかってしまったと思う。ジャーナルは良いとして、今年一番の成果は、国際会議論文のByakkoだろう。ようやく英語の査読付き論文として投稿できたため感慨深いものがある。

学生と一緒にやっていた論文はまだ1本しかないが、今月はSCIS 2020へ2本投稿することができたため、これから徐々に増えていくだろうと思う。SCIS 2020へ投稿した論文は以下の通り。

  • 西口 朋哉、高野 祐輝、宮地 充子、"セッション型を用いたアクセスコントロール機構の設計と実装"、SCIS 2020
  • 竹中 幹、高野 祐輝、宮地 充子、"XDPを用いたネットワーク型欺瞞的防御システムの設計と実装"、SCIS 2020

まだまだPreliminary Studyな感じはあるが、ようやく足元が固まりつつあるため、今後クオリティを上げて国際会議論文やジャーナル論文にしていきたいところである。

2019年の講義

2019年は、離散数学と計算の理論、実践情報セキュリティとアルゴリズム、の講義を2つと、高度サイバーセキュリティPBLのIとIIを行った。分野的には、数理論理学、λ計算、型システム、形式手法、ネットワークセキュリティ、ファイアウォール、デバッガ・動的解析、正規表現アセンブリ・コード生成という感じで、分野が広すぎてなかなか大変だった。自分の専門である、コンピュータネットワーク、分散システム、コンパイラあたりならもう少し余裕を持ってできると思うのだが、なかなかそうは行かないもんである。

来年はさらに上に加えて、線形型システムとリージョンベースのメモリ管理手法を行い、Rust言語を支える技術について講義を行おうと思う。自分に出来るかは心配であるが、既存のコードを、RustやHaskellといった安全なプログラミング言語に置き換えていくのはソフトウェア業界の課題であるため、なんとかやり遂げたい。

2020年の抱負

2020年は、研究予算をとり、将来的には幅広な合宿に学生を連れていけるようになると良いと思っている。他大学の優秀な学生と交流できる機会があるのは、それなりに意義のあるものだと思うので。

また、本も書きたいし、言語処理系実装もすすめたいし、論文も書きたいし、とやりたいことが多すぎるが、これらは時間を見つけて少しずつすすめるしかない。もう少し時間があれば研究成果も増やせると思うのだが、悩ましいところである。

鬼が笑うので、抱負はこの辺にしておこう。それでは皆さん良いお年を。

ドラクエ11をクリアしたぞ!

自分が初めてプレイしたドラクエはたぶん1である。多分というのは、小学生に入るか入らないかの頃に友達の家でプレイしていて、ラダトーム城からなかなか出ることが出来なかったような記憶がうっすらと残っているのみで定かではないからだ。ドラクエ2もプレイしたと思う。こちらもやはり友人の家で見ていたが、自力プレイだと紋章を集めたりが出来ていなかったように思う。最終的に、どこからか手に入れた最強レベルの復活の呪文でアトラスやパズズを倒していた気がする。シドーまで倒していたかは記憶にない。ドラクエ2は貸してもらい自分でもプレイしてみたが、当時はクリアできなかった気がする。 

死のオルゴール探して

ドラクエ3は自分で最初から初めてプレイしたドラクエだ。ドラクエ3にはラーミアがあり、裏のボス、ゾーマがいて、さらには死のオルゴールを探し求めと、まさに隅から隅まで堪能した。死のオルゴールとはROMのデータ上にはあるが、ゲーム中には存在しないアイテムで、それを手に入れるとレベルを99にすることができるという伝説上のアイテムだ。

あるバグ技を使うと、バッファオーバーランか何かが原因でアイテム欄のメモリや、経験値のメモリが書き換わりレベルが上ってしまう。その結果、ゲーム中には存在しないがROMのデータ上には存在する死のオルゴールを手に入れることができるのだ。ちなみに、そのときに表示されるメッセージは「○■**-!&^%%■■@ は死んでしまった。おおがらすはレベルが上った」みたいな意味不明なメッセージであり、子供心に深淵を覗いてしまったと思ったものだ。しかし、このバグ技はもろはの剣であり、キャラの名前が変な名前になってしまったり、呪文を忘れてしまったりするのだ。メモリを破壊しているのだから当たり前である。

ドラクエ4もやはりスルメのようにプレイした。こちらも何週したかわからない。アリーナにキラーピアスを装備させて、ひたすらメタルキングを狩っていた。レベル99になる付近で、こちらでもとあるバグ技を行い、バグプレイを堪能していたところ、どうにもできない詰みの状態になってセーブしてしまい、そこからプレイしなくなってしまった。ドラクエといえば遊び尽くした結果、最終的にセーブデータ破壊してしまうものだし、当時は小学校でドラクエ4の攻略を会話するのが日課であった

そこからドラクエ生活はしばらく間があり、20代前半頃にドラクエ2、3を再履修した後、ドラクエ8をプレイし、その後にドラクエ5のリメイク版をプレイしたような気もする。何もかも懐かしい。

そしてドラクエ11

(以下ネタバレ)

ドラクエ11が出た当初、なにか忘れたが忙しかったためにプレイはしなかった。ドラクエ11を買おうと思った頃にはSwitch版でキャラクタに声を当てたバージョンが出ると聞いたので、ゼルダの伝説BoWやFGOをやりつつ、今年の9月まで首を長くして待っていたのだ。

結論から言おう。なんだこのおっさんホイホイゲームは、最高か。BGMが完全にドラクエ3だし、マルティナはゼシカだし、ぱふぱふ屋はあるし、なんなのこれ。しかも、途中で2Dバージョンのミニゲームっぽいのもあるのだが、そこでロンダルキアへの洞窟やバラモス城をクリアしなければならないのも最高すぎでしょ。あれ、これ自分向けにアレンジして作ってくれたやつ?いつヒアリングされたっけ?

というわけで10月の前半は、家に帰ると速攻任天堂Switchの電源を入れて、日が変わるまでやっていたし、土日は朝から晩までやっていた。クリア後のプレイ時間は108時間で、自慢じゃないが就業時間より長いと思う。いやしかし、表ボスを倒してクリアと思っていたら、まさか裏ボスを倒しに行くとは思わなかった。バラモスかよ、ドラクエ3かよ。本気でクリアしたと思ったのに。

その後、PS4ドラクエ11をプレイ済みの前職の同僚と会う機会があり、攻略話で大いに盛り上がった。ドラクエの攻略話で盛り上がるのは小学生以来であった。

集中講義をやり遂げたぞ!

MacOSをアップデートしてCatalinaにしたら、業務で必要なオンラインミーティング用のアプリが起動しなくなってしまった。Catalinaでは32bitアプリをサポートしなくなったのでその影響っぽい。しょうがないのでTime MachineでMojaveへ戻すことにしたら、復元まで4時間31分と書いてあって何もできなくなってしまった。

閑話休題

8、9月は大学で行う集中講義(大阪大学のProSec)の準備をしていたため、他のことが全くできなかった。10月には2つの集中講義があり、1つめは自分が担当し、2つめは情報通信研究機構から明石先生を招いて講義を行ってもらった。

1講義は2日間かけて行われるのだが、自分が担当した1つめの講義では、1日目に簡易デバッガを自作してもらい、2日目には正規表現を自作のアセンブリ言語に変換して実行するという、いわゆるコード生成機とバイトコードインタプリタの実装を行ってもらった。どちらもアセンブリレジスタマシンの仕組みを正確に理解していないと実装は難しいのだが、2〜3割ぐらいの学生はある程度実装を終えたようだった。ちなみに、JITコンパイルを行うために、LLVM IRへ変換する方法の説明とサンプルコードも紹介したが、さすがにLLVM IRまで到達した学生はいなかった。欲張ってコンテンツを盛りすぎである。

2つめの明石先生の講義では、仮想環境でJuniper社のvSRXを利用しFirewallを構築した後、Web Application Firewallの設定や脆弱性スキャンの演習を行った。SRXは実際に業務でも利用されているアプライアンスであり、それとほぼ同じものを体験できるのはなかなかないチャンスだったと思う。こちらも最後まで到達できた学生は2〜3割程度だったが、vSRXの設定はすべての学生が出来ていたようだった。

普段業務でプログラミングやサーバを触ることの多い社会人の参加者でも、プログラミングやvSRXの設定等に苦労していたため難易度はそこそこ高かったかもしれないが、勉強にはなったと思う。

しかし、準備はやたらと大変であった。例えば、OSのシグナルについて正確に教えるためにLinuxカーネルソースまで読んでいて、めちゃくちゃ時間がかかった。結局の所、これは必要なかったように思うし、そういう必要かどうかわからないところまで調査していたら、あっという間に時間が過ぎてしまった。必要な知識かどうかを事前知識のないまま取捨選択するのは難しい。

前期の計算の理論の講義ではλ計算型推論エンジンの実装を行ってもらい、今回の集中講義でアセンブリに関する実装を行ってもらったので、現代コンピュータの重要なところは学べたと思う。いずれにせよ、両方ともの集中講義が無事に終えることが出来てよかった。

【読書メモ】操られる民主主義 デジタル・テクノロジーはいかにして社会を破壊するか

どくさいスイッチ

ドラえもんの秘密道具の一つにどくさいスイッチという道具があるが、このスイッチを使うとどんな命令でも叶えることができる。では、もしも現実にどくさいスイッチのようなものがあったとして、そのボタンを押すことが出来たとしたら、我々はどうするだろうか。例えば、そのスイッチを押すと、好きの人の心を自在に操ることが出来たり、大金持ちになれたりするとしたら、どうだろうか。操られる民主主義という本では、このどくさいスイッチは実在していたと思わされるような内容が書かれていたので、適当に思ったことを書きなぐりたい。

操られる民主主義: デジタル・テクノロジーはいかにして社会を破壊するか

操られる民主主義: デジタル・テクノロジーはいかにして社会を破壊するか

 

ケンブリッジ・アナリティカ

つい最近、ケンブリッジ・アナリティカというコンサル会社が米国での2016年トランプ大統領選に一枚噛んでいたということで大きな問題になった。同社はそれ以外にも、イギリスのEU離脱Brexit)にも大きく関わっているということが明らかなり、こちらも大変物議を醸し出している。

2016年のトランプ大統領選やBrexitで彼らがとった手法は、Facebookなどの個人情報を取得してデータマイニングを行い、トランプに投票しそうな人、あるいはEU離脱に参加しそうな人をアルゴリズムによって見つけだし、そういった人々らにターゲット広告を行うことで投票行動を変えてくというものである。例えば、車のフォードの所有者はトランプ支持に回る可能性が高いとアルゴリズムが導き出したため、フォード所有者に右寄りなターゲット広告を見せることでトランプ支持者に変えていったのだ。この手法の成果はめざましく、ヒラリー・クリントンの所属する民主党が絶対と言われていたペンシルバニア州ではなんとトランプが勝利した。

このような仕組みが明らかになってくると、疑問に思うことが出てくる。私達が使っているSNSでの投稿や閲覧は、自分たちが思っている以上に、私達の意思をコントロールするために使われているのではないだろうか。

21世紀のプロパガンダ

一般的な道徳観念や倫理観などに照らしあわせると、人間の自由意志を奪うような行為は良くないと考えられる。それに、民主主義とはそもそも、私達には自由意志があり自分自身で行為を決定できるという前提があるからこそ成り立つのであって、誰かからコントロールされるようでは、到底民主主義と言えないのではないだろうか。

ケンブリッジ・アナリティカのようなアルゴリズムによる方法ではなくて、誰かに扇動されるような民主主義はこれまで幾度も行われてきた。従来まではそれらはプロパガンダと言われたが、これが今世紀になりかなり巧妙になりつつある。しかも、この流れは止まるどころか、今後加速していきそうな気配しかない。ケンブリッジ・アナリティカの件は今回運悪く発覚してしまったが、今後はより巧妙に事がなされるだろうとは容易に想像される。

私達ひとりひとりは極めて道徳的で倫理的な人間であったとしても、実はどこかにどくさいスイッチを持っている少数の人々がいて、私達をコントロールしているとしたら、私達はどうすべきだろうか。

プライバシー

プライバシーというと、自分の秘密の情報を知られるのはなんとなく気持ち悪いから必要だと思われがちであり、特に企業のような組織からみると、個人のプライバシーなど大して重要なことではないと考えているフシがある。しかし、実はプライバシー情報とは、大量に集めることで誰かをコントロールすることができるようになるという、どくさいスイッチそのものだったのだ。

プライバシー保護するための技術も色々と提案はされている。例えば、暗号技術の秘匿計算などはその最たる例だろう。ただこれらはパフォーマンスなどの面で技術的な課題がいくつかある上に、そもそもGAFAのような国際的企業に対する強制力もないので、これだけで解決するようなものでは到底無いように思われる。

したがって、結局のところ我々市民のリテラシー向上が必要で、今後社会をどのようにしていきたいかを、私達自身で良く考える必要があるのだろう。ほいほいSNSのアンケートに答えると、それをザッカーバーグが集計してターゲット広告のエサにしてしまうのである。

これは受け売りだが、情報はオイルではなく原子力と言ったほうが良く、適切な知識を持って正しく扱わないと、私達の社会を容易に破壊するのだろう。

【読書メモ】僕らはそれに抵抗できない「依存症ビジネス」のつくられかた

コカインは現在では麻薬として禁止されている薬物の一種なのは周知の事実だと思う。麻薬が問題で禁止されている原因はその依存性の強さにある。しかし、このコカインは19世紀から20世紀のはじめには普通に市販されていたのもまた事実である。コカ・コーラのコカはコカインのコカから来ているのは有名な話である。では、なぜ依存性がこれほど問題になるかというと、これもよく知られている通り、その事以外ができなくなり、働いたり、家族と過ごしたり、トイレに行ったりという極めて一般的な生活を送ることが困難になってしまうからだ。

聞きかじったところによると海外などでは比較的用意に麻薬が手に入るっぽいが、日本の場合だとかなり厳しく取り締まられているためか、手に入れるのは難しいように思う。行くところに行けば入手可能だと思うが、普通に生活を送っている人が手に入れるのは難しいだろう。(プロ野球選手や霞が関では手に入るっぽいが)

『僕らはそれに抵抗できない「依存症ビジネス」のつくられかた』は、現代の依存症について書かれた本でなかなかおもしろかった。

僕らはそれに抵抗できない 「依存症ビジネス」のつくられかた

僕らはそれに抵抗できない 「依存症ビジネス」のつくられかた

 

依存症の世界へようこそ

警察活動などのおかげで我々日本での依存症が根絶されたかというとそうとは言えない。スマホソーシャルゲームやオンラインゲーム、あるいはInstagramなどのSNSは実のところ現代における依存症の最たる原因になってしまっている。

ソーシャルゲームには依存症にさせるための要素が至るところに散りばめられている。例えば、スタミナというシステムがある。このスタミナというシステムでは、数時間ごとに一定数の値が加算されていき、ある値になるとゲームがプレイできるようになる。このスタミナシステムは無料でプレイできてありがたいと思いきや、これが依存症への架け橋となっている。これは、本にもそう書いてあるし、自分も体験したので間違いないので信じてもらって良い。こいつは非常に良くできたシステムである。

スタミナシステムのあるゲームのやりはじめは1. プレイをする、2. スタミナが減る、3. スタミナが貯まり1にもどる、というループだが、だんだんこれが、1. プレイをする、2. スタミナが減る、3. スタミナが溜まってないかスマホを何度もチェックする、4. 依存症になるというループになってしまう。ソシャゲをやったことのない人はそんな簡単にハマるわけがないと思うかもしれないが、事実、このループにいとも簡単に人間はハマってしまう。しかも、スタミナシステムは依存症への第一歩に過ぎず、その後、ギャンブルと同じ射幸心を煽るガチャ、限定イベントなど、あの手この手でプレイヤーを依存症の道へ引きずり込んでいく。

こういった事例は別にソーシャルゲームだけではなく、マラソンみたいなものなどにも広がっていらしい。驚くことに、ランニング距離を監視するスマートデバイスなどにより、マラソンが中毒になってしまうのだ!当然無理な運動を続けた人間は怪我をしたり体を壊してしてしまう。人間、数値が出ると目標がその数値になり本質を見失いがちである。SNSのいいねなども全く同じ構造である。

現代の麻薬製造業

ソシャゲもマラソンもどれもこれも、はじめは楽しむだったり、健康になるという目標だったのに、いつの間にか悔しい思いをしたり、怪我をするために行為を行ってしまっている。ようするに依存症になってしまっている。しかも、現在のインターネットを使ったサービスの多くが人を依存症にさせるように設計されてしまっており、自らを律することが出来ない意志の弱さが悪いとか言った問題ではなくなってきている。昔はオンラインゲームに依存してしまうのは一部のゲームマニアだけだったが、スマホなどの普及に以前とは段違いの人口にリーチしてしまっている。

更に残念なことに、これらを行うためにハイテクの技術、流行りの言葉で言うところのビッグデータ技術や人工知能技術がこれでもかと言うほど投入されている。一流大学でコンピュータサイエンスを学んで生み出しているものが、現代のコカインとも言うべきものであると考えるとなんとも皮肉である。麻薬もたいへん儲かるらしいし、SNSやソシャゲも大変に儲かるらしいし、人を依存症にさせるビジネスはというのはどうも儲かるようにできているのだろう。経済学の需要と供給曲線で考えると、需要曲線がやたら上に押し上げられる感じだろうか。

依存症とその対策

では、このような依存症ビジネスから抜け出すには何をすべきかというと、個人レベルの対策では、まず、環境を変えることが重要だそうだ。例えば、昔ベトナム戦争という戦争があったが、ベトナムに派遣された米軍兵士の間でヘロインが大流行したそうだが、実はヘロインに限らず依存症というのは環境に強く結びついており、米軍兵士がアメリカに戻るとヘロイン依存症から脱却できたそうだ。しかし、一旦同じ環境に戻ると再び依存症が再発したらしい。

当時、麻薬中毒というのはその薬物自体が原因であり、環境などは全く関係ないと考えられていたので、この発見は相当の驚きだったらしい。おかげでこの学説が発表された当初は全く受け入れられずに苦労したそうだ。いつの時代も、新しい考えはなかなか受け入れられないようで大変である。

環境といえば、現在のデジタル環境はとにかくデータを取得されて、人間を依存症にさせることに最適化されすぎている。個人的に特に最悪な発明だと感じるのがプッシュ通知で、放っておくと毎秒通知が届く羽目になり、通知を確認するだけで人生が終わってしまう。集中しているときに通知がくるのは最悪で、最近は通知を全てオフすることを決意し、数時間おきにこちらからポーリングするようにした。通知を全オフにして以降はなかなか快適なデジタルライフを送っている。通知全オフは全人類におすすめしたいソリューションである。脱依存症ライフを送ろう。

今の処、個人情報を扱うようなビッグデータ人工知能はろくなことに使われていないのではないかという気もしてくるが、IoTとか無邪気に言っている諸氏らはここらへんはどう考えているのだろうか。気になるところである。依存症が問題で麻薬などは規制されているのに、デジタル版のコカインとも言うべきサービスは放置してよいのだろうかと疑問も湧いてくる。

さらに、依存症ももちろん問題だが、最近のSNSを通じた選挙などを見ると民主主義の根幹を揺るがすような自体にも発展しており、今後の情報化社会には暗澹たる思いにならざるを得ない。選挙などの話はまた別に紹介したいが、社会5.0とか言っている場合ではないぞという気持ちになってくる。やれやれである。

【読書メモ】天才とは何か

実は、世の中には天才と呼ばれる人がたくさんいるだろう。クラスの中の天才や、会社の中の天才などである。今回読んだ『天才とは何か』という本は、そういった巷にありふれている天才ではなくて、後世に重大な功績を残した、例えばアインシュタインやバッハのような、真の天才について書かれた本である。

天才とは何か

天才とは何か

  • 作者: ディーン・キース・サイモントン,小巻靖子
  • 出版社/メーカー: 大和書房
  • 発売日: 2019/03/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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数学者は人生の早くに功績をあげるが早く死ぬ

本書では、天才はいつ頃功績を残すかや、どのくらいの頻度で功績を残すか、その家族構成などが議論されているが、自分が一番気になったのは、数学者は人生の早い時点で重要な成果を残し、他分野の天才よりも早く死ぬ(平均して6年も!)ということだ。確かに天才ガロアは若くして代数学の分野で重要な成果をあげたが、決闘によって20才のという若さで亡くなっている。しかし、決闘で死んでしまう数学者は稀だろうから、他に何か要因があるのだろうと思う。

残念ながら本書では天才数学者の死因トップ10のようなランキングは乗っていなかったので、その正確な原因はわからないが、確かに天才数学者はあまり良い人生の結末を迎えていない人が多いように思う。

無限について深い洞察を与えたカントールは、自身の業績が認められずにうつ病になってしまっているし、同性愛者であったチューリングも精神を病んでしまっている。ナッシュ均衡のナッシュも統合失調症であったそうだし、思い当たる節が多すぎである。

概念的クリエイターと実験的クリエイター

本書で述べられていた、概念的クリエイターと実験的クリエイターという概念も面白かった。概念的クリエイターは突然閃いて仕事をする人のことで、こういうクリエイターは人生の早い時期に最高の仕事をし、実験的クリエイターは、探求しながら徐々に進んでいくので、膨大な量や知識を備えた人生の後半に最高の仕事をするそうだ。

自分の専門分野はシステムソフトウェアであるが、周りを見渡すと多くの人が実験的クリエイターであるように思う。若いときは知識とスキルが追いつかないので、どうしても時間がかかってしまう。もちろん自分も実験的クリエイターである。

ただ、概念的クリエイター、実験的クリエイターのどちらも、膨大なアウトプット量という下地の上に創造的な産物が得られるそうなので、数は力である。天才になりたければ、とにかくアウトプットするしかないのだ。悲しい現実だが、しょうがないので、日々少しずつアウトプットしていこう…