【読書メモ】哲学がわかる 自由意志

本書は哲学の自由意志について述べたものとなる。平易に書かれているのだとは思うが、題材が題材だけに難しいと言わざるを得ない。しかし、自由意志と道徳、責任は密接に関わっており、物事の責任をどう捉えるべきかを考えさせられる本だった。

哲学がわかる 自由意志 (A VERY SHORT INTRODUCTION)

哲学がわかる 自由意志 (A VERY SHORT INTRODUCTION)

 

本書の裏表紙に書かれている文章が、本書の内容をよく説明しているので、引用してみよう。

意志の自由は道徳の大切な根拠だ。自由に選べるからこそ結果に責任が生じると私たちは考える。だが、現代科学は一見自由に見える私の選択も原因と結果の必然的な連鎖として説明し尽くせるという。困った、どう考えたらよい?

自由意志については、大きく分けて意思は因果的に決まるという説と、意思は自由に決まるという説から説明される。自由意志とは、私達は真に自由な意思を持っており、物事を自由に決める能力があるということで、因果的決定論とは、私達の意思は単なるアルゴリズムであり、行為はアルゴリズムによって因果論的に決まるという考えである。

これをまとめると以下のようになる。

  • 自由意志と因果的決定論は両立する → 両立可能説
  • 私達に自由意志はなく、因果的決定論的に行為が遂行される → 懐疑主義
  • 私達は自由であり、因果的決定論は偽である → 自由意志説
  • 私達に自由意志はなく、因果的決定論も偽である → 行為はランダムに遂行される

ランダムな意思決定と因果的決定論

私達が物事を決定する際にどのように行われるかを考えてみると、ランダムに決定するか、あるアルゴリズムによって決定するかによって決まるか、もしくはその中間の方法によって決定されるかであると思われる。自由意思とは、つまり物事を理性的な判断によって自由に選択できることであるが、ランダムに決定する場合は、そこに自由な意思はあるとは到底言えそうにない。

では、私達は理性に基づいて、合理的な判断の下に意思を決定しているとしよう。理性とはすなわち推論能力のことである。この推論能力によって合理的に行為が決定されるとしたら、合理的であればあるほど私達に行為の自由はないと言える。私達は、自由に物事を決定する能力があると思っているが、動物が欲望のまま餌に貪るのと同じように、脊髄反射と同じように、行為についての選択肢はなく、単なる合理的なアルゴリズム人間であり自由意志は無いのかもしれない。

ホッブズと両立可能説

17世紀の哲学者トマス・ホッブズは自由意思と因果的決定論は両立するとした。しかし、彼は私達の思い描くような自由とは異なる方法で自由を定義した。つまり、ホッブズの自由は、行為の選択するような自由ではなく、自由落下の自由のような意味で自由を定義しなおし、自由意志と因果論的決定論は両立するとしている。自由落下的なということは、すなわち、行為の遂行を妨げるときがないときに自由であるとしている。

たしかに、自由の定義を変えれば因果的決定論と両立するかもしれないが、これはいささか反則技に思える。論理学的に言うならば、前提条件が異なっていれば導かれる答えが異なるのは当然だからだ。

道徳責任とは何か

私達は、自由に行為の選択を行えるからこそ、その行為に責任があると考えている。では、私達の行為はアルゴリズム的に、因果的決定論的に決まり自由意志は無いとすると、道徳責任はどこにあるのだろうか。おそらく、道徳とは、推論能力を有している人間に、そこ行為が利己的か利他的かを判断することを強いており、その推論能力を行使して実施することにこそ責任があるとしているでは無いだろうか。つまり、「意思関数(状況)→行為」という流れだったのが、「意思関数(状況、道徳)→行為」とすべきとしているように思える。

因果的決定論か自由意志か

本書では、現代哲学で主流の因果的決定論ではなく、自由意志説の立場を取っている。決心自体を行為と捉え、決心に自由があり私達は自由意志の下に行為を遂行していると説明している。しかし、私の読解力不足で、その理由を正確に咀嚼することは難しかった。

これは私の考えだが、人間はフィードバック制御を行っており、行為の結果に基づいて行動指針を絶えず変化させていると考えられる。すなわち、私達は自己書き換えコードであり、動物と違う点は、その精度と取りうることのできる入力変数の数が圧倒的に多いという事のみであるように思われる。責任能力の有無は、推論能力の強さによって異なるのではないだろうか。しかし、こう考えると、私達に自由意志はなく懐疑主義になってしまう。私達は自由な行為者なのだろうか。