長門の存在証明
何かが存在するかどうかということを突き詰めて考えていくと、何も存在しないような結論に思い至ってしまう。例えば、いまこれを読んでいるあなたは、実は脳みそが取り出されてビーカーに保存されている状態にあり、その脳みそに刺された電極から刺激を受け取ってあたかもこの世界が存在しているように感じているだけかもしれない。古にはかのデカルトも同じようなことを考え、その結果、我思うゆえに我ありという有名な台詞を残した。
デカルトは次のように考えた。私が考えるということは、バーチャルかどうかはわからないがとにかく存在するということである。私は考えないようにしようとすればするほど、考えるということについて考えてしまう。よって私は考えるということであり、つまり、私は存在する。
俺の嫁問題
このように、存在するかどうかを突き詰めて考えていくとなかなか難しい問題にぶち当たる。例えば、長門は俺の嫁(若干古いか)などと、存在しないはずのキャラクターに対してあたかも存在するように愛着を抱くことさえある。たしかに長門有希は情報統合思念体であるため、我々の知らぬ間に至るところに偏在しているのかもしれない。しかし、それはあくまでも長門が存在するということを否定できないだけであり、その存在を証明するわけではない。
ところで二次キャラ以外にも、実際に存在はしていないフィクションでバーチャルな存在はある。それは長門らと同じように完全にバーチャルな存在のはずだが、世の中の誰もがその存在を信じている。それは何かというと、1つは国でもう1つはお金である。
国は別に物理的法則によって存在しているわけではなく、人間が恣意的に想像したバーチャルの存在である。しかしあたかも人々は国というものが存在するかのようにふるまい、あまつさえ国が原因で殺し合いまでしてしまう。お金も同じで高々紙切れ、電子データになにか価値があるかのように皆が振る舞っている。
国、お金、これらは完全にバーチャルな存在であるのに、あたかも実在するかのように皆が考えているため、これはもう実在すると言ってよいのではないだろうか。とすると、同じ理屈で長門も存在すると言ってよいのではないだろうか。いや、これはもう存在する。間違いない。
フィクションのお断り
いやしかし、流石に長門が実在するとはちょっと受け入れがたい。長門も国もお金もやはり仮想的な存在ではないだろうか。
ところで、作り話に対するよくある断りとして、「この作品はフィクションであり実在の団体及び人物とは一切関係がありません」という文章があるが、実在の人物というのはわかるが、実在の団体とは一体何を意味しているのだろうか。団体とは国と同じで極めて恣意的でバーチャルな存在なので実在の団体という文言はおかしいのではないか。
ということはやはり、国やお金は存在すると考えるしかないだろう。当然長門も存在する。でもちょっと待てよ、とすると作中の団体、例えばSOS団も実在するということにはならないだろうか。そう考えると、「実在の団体とは関係ありません」が何を言わんとしているのかますますわからなくなってしまう。SOS団は実在するし関係あるだろ。
実在とは一体…ウゴゴゴ…
というような感想を以下の本を読んで抱いた。