【読書メモ】哲学とは何か、ゴルギアス・テーゼ
いま、「哲学とは何か」という本を読んでいるのだが、この前半部分に出てくるゴルギアス・テーゼについて理解が難しかったので、自分なりの解釈をメモしておこうと思う。実は、「哲学とは何か」はまだ前半部分しか読んでいないが、ゴルギアス・テーゼを理解しないことには先に進めなそうなので、少し考察してみる。
ゴルギアス・テーゼ
ゴルギアス・テーゼとは以下の3つが成り立つという主張のことである。
- 何物も存在しない
- 何かが存在したとしても、それを認識できない
- 何かを認識できたとしても、それを言語化できない
これの意味することは明らかだが、これの証明(と言われているもの)は不明瞭で、本書でも詳細は語られていない。Webを検索してもいまいちな説明しか無いため、もう少し形式化して考えてみようと思う。
形式化
まず、ゴルギアス・テーゼの形式化を考えてみる。おそらく以下のようになると思う。
E(x): xは存在する
R(x): xは認識できる
L(x): xは言語化できる
述語を決めて、限量子で量化しているだけである。
何物も存在しない
1のテーゼの否定を仮定する。つまり、次を真と仮定する。
何かが存在するとする。その何かは無から生まれたか、別の何かから生まれたかのどちらかである。無からは何も生まれないので、無から生まれたのは誤り。別の何かから生まれたとすると、その別の何かの誕生を証明しないといけない。別の何かの、そのまた別の何かのという論法は無限遡行と言って、これは論理的な誤りであるとされる。というわけで仮定は誤り。背理法よりテーゼ1は真となる。
無限遡行はいろいろな場所に出てくる。例えば因果律の説明で、因果律を認めるためには、物事の因果の因果の、そのまた因果をたどることが出来る必要があるが、これは無限遡行に陥る。あるいは、ある地点では原因が無くても結果が起きる必要がある。よって、因果律は認められない。
何かが存在したとしても、それを認識できない
次に2のテーゼを証明してみる。
なので、この否定が真であると仮定する。つまり、
となる。しかし、テーゼ1より何物も存在しないのでこれは誤り。よって、背理法よりテーゼ2は正しいと証明された。テーゼ3もほぼ同じように証明される。
梵我一如
ゴルギアスは古代ギリシアの哲学者であるが、古代インドのウパニシャッド哲学の梵我一如も大体同じようなことを言っている。梵(ブラフマン)は宇宙の普遍的な実在で、我々には認知できない。我(アートマン)は自身の中心的な実在であり、我々自身では認識できない。結論だけ言うと、梵と我は同じであるというのが梵我一如の教えとなる。
ギリシアとインド、全く違う土地だが、同じような結論に至っているのは面白い。ただ、どちらも我々のような凡夫にはよくわからないというのが大きな特徴である。
宇宙は無限か存在しない
無限遡行が問題なのは、この世が有限だからという前提があるからのように思える。我々の宇宙が誕生したのは138億年前と言われているが、ではこの宇宙は何から生まれて、その何かは何から生まれたかのという疑問が残る。つまり、何物かが存在する、あるいは因果律が成立するためには、多元宇宙論的な宇宙が存在して、さらにそれが無限に続く存在でなければ説明がつかない。
因果律はともかく、何物も存在しないというテーゼは受け入れがたい。我々が存在するという証明を残したのは、かの有名な「我思う、故に我あり」を残したデカルトだが、少なくともデカルトの言うように何物かが存在するならば、宇宙は無限ということになる。
以上、つらつらと書いたが単なる感想なので笑い飛ばしていただければと思う。ソワカ。