【読書メモ】国家がよみがえるとき 持たざる国であるフィンランドが何度も再生できた理由

本書はフィンランドの大学教授や元国会議員、小中学校校長など、多数の人物からのエッセイから成り立つ本である。フィンランドの話では有るものの、日本の抱える問題とオーバーラップするような普遍的な話題も多くて、考えさせられる本だった。

国家がよみがえるとき 持たざる国であるフィンランドが何度も再生できた理由

国家がよみがえるとき 持たざる国であるフィンランドが何度も再生できた理由

 

 フィンランドと言うと、教育が素晴らしかったり、男女平等だったり、福祉国家だという印象があるかもしれないが、実際のところは言うほどでもなく、この本を読むと、これらの偏見は如何に間違っているかということが分かる。

例えば、一時期、フィンランドの教育は素晴らしいと世界中から礼賛されたことがあったが、それに対して当のフィンランド教育会自信が驚いていたようだ。というのも、フィンランドの教育は各学校、教師の自主性によることが大きく、これがフィンランドの教育というものが無いそうだ。また、福祉国家という印象も強いが、最近では財政難で福祉予算が削られていき、もはや福祉国家とは呼べないよくある普通の国となっているそうだ。

本書では教育についても、多くのスペースを割いて議論を行っているが、その中に大変考えさせられる文があったので紹介したい。

「国民の形式的な教育水準と経済的繁栄は、良い意味で相関関係にあるが、この関係は、あまりにも額面通りに解釈されたため、質を犠牲にして、形式的な教育制度をますます増長させるようになった。その結果、ほとんどの先進国で、学位がインフレ化 し、学習という概念が表面的になるという問題が生じた。あわせて、学生、教員、教育部門の役人すべてが、「能力と資格」という二つの概念を混同するようになった。」

古市憲寿; トゥーッカ・トイボネン. 国家がよみがえるとき 持たざる国であるフィンランドが何度も再生できた理由

これは、ユッシ・T・コスキという、フィンランドの小中学校校長、著述家のエッセイにある一文であるが、 これについては日本でもよく考えないとならないテーマではないかと思う。

例えば、よく、大学を出たところで何の易にもならないという批判が有り、実際、大学を卒業した人で、大学で何が得られたかを明確に語れる人は多くないかもしれない。しかし、よく考えると、それは、社会、あるいは政治政策がラベルを量産することに執心した結果であるので、それがそもそも正しいアウトプットなのかもしれない。

では、本来、高等教育では、ただのラベルではなく、どんな能力が習得されるべきかを明確に言える人はどれほどいるだろうか。また、大学ではラベルだけなので、大学を潰せば良いという発想だと、そもそも本来、高等教育機関が設立された理念である、高度人材の育成はどこへ行ったのか、よく考える必要があるのではないだろうか。また、工業化や人口知能のすさまじい高度化が進み、単純作業はほとんど人間が行う必要が無くなりそうな昨今、人間がエクセル方眼紙を埋める仕事をするのではなく、学術、芸術、スポーツ、家族との団欒などに時間を使うべきではないのか。そんなことを思わされる本だった。

本書では、教育以外にも、福祉、ニートなどフィンランドにおける色々な話題を取り扱っており大変面白かった。理想国家などそうそうないのだという事がよく分かる。