シン・エヴァンゲリオン劇場版を視聴した(ネタバレあり感想)

最近、眉をしかめることがあった。研究室には事務作業をしてくれる事務の方が居るが、自分で取ってきた研究費を用いた物品調達は研究室事務に依頼するのを禁止された。ボスの研究費のみ依頼可能らしい。なるほど。まあいいだろう。これぐらいのハラスメントは日常茶飯事だ。見るがいい、これがアカデミアだ。

そんなもやもやを抱えながら、シン・エヴァンゲリオン劇場版を観に行った。エヴァとは付き合いが長い。もうかれこれ25年ぐらいだ。当時の友人が筋金入りのオタクで、その友人宅でエヴァを見た。すぐにはまった。旧劇を見るために、午前4時から映画館に並んだ。当時はインターネット予約といった先進的なシステムは無く、並んでチケットを買ったものだ。映画のチケットを買うとレイかアスカのテレフォンカードを購入できるのだが、迷わずレイを選んだ。友人は当然のごとくチケットを2毎購入し、レイとアスカの両方を手に入れていた。どっちつかずの八方美人はいけない。本命に絞って購入するのが男だ。Airは良い。アスカの覚醒シーンは最高の一言だ。まごころを、君には良くわからなかった。しかし、納得できないという気持ちの一方、やっぱりエヴァだったなという安心感もあった。エヴァはこうでなくては。

序、破も最高に面白い。これがエンターテインメントだ。シン・ゴジラも良かった。アニメの監督がここまで面白い実写映画をつくれるとは思ってもみなかった。しかしQは何だ。意味不明だ。ヴンダーとは?いきなりの艦隊戦はエヴァとは違うのではいか?そんな思いが巡ったが、その一方で、やはりエヴァだなと妙に納得している自分もいた。エヴァはやはりこうで無いといけない。普通の終わり方などあり得ない。これこそがエヴァお家芸で、これだからこそこれだけ長く愛されているのだ。完全に調教済みである。

シン・エヴァンゲリオン劇場版を観に行った。エヴァが終わると聞いていたが、にわかには信じられなかった。エヴァが終わる?本当に?あのエヴァだぞ。そう思いながらIMAXシアターの席に座っていた。映画が始まる。冒頭のシーンはAmazon Prime Videoで視聴済みだ。前日、前々日に序・破・Qも再履修した。

シーンが移り変わり、綾波が農作業していた。あの綾波が。私は人形じゃ無いと言っていた、どう見ても人形の綾波が、おはよう、おやすみ、こんにちは、さようならとあいさつをしている。綾波は魔法の言葉を覚えていた。あいさつするたび、ともだちが増えていっていた。なんと言うことだ、あの綾波がここまでの成長をみせている。もうこの時点で涙腺は駄目になっていた。これが尊い?信仰に近い感動を表す言葉。初めての気持ち。綾波は様々な感情を学び、自分は尊いを学んだ。色々あった現実世界のもやもやなど既に忘れていた。しかし、まだ映画の前半だ。エヴァがこのまま平和に終わるわけが無い。先のことを考えると暗澹たる気分になった。

映画は続き、いよいよ終盤にさしかかる。もしかして、本当に、本当の本当におわるのか?そんな考えが頭によぎった。エヴァが終わる。それが確信に変わったとき、奇妙な感動が押し寄せる。庵野秀明監督、お疲れ様でした。そういう思いやら何やらが色々まざりあい、変な感動が押し寄せる。作品自体の面白さとか、そういう客観的な判断を下すのは既に不可能となっていた。実際、序・破・Qから見た新規の客に受ける内容かはわからない。アスカ、ゲンドウ、それぞれのキャラクターが救済されていく。輪廻転生の輪から解脱していく。ああ終わるんだな、そう思わせてからの、渚指令。さすがエヴァだ。これだよ。エヴァはこうでなくっちゃ。納得のいかない終盤シーンに、妙に納得していた。

帰り際、近くの本屋に寄った。その本屋の科学雑誌コーナーには、日経サイエンスニュートンが売られており、その間にムーが鎮座していた。綾波も成長するんだ、ムーだって成長する。そう感じた。

【ネタバレ】翠星のガルガンティアと優生学

2018年の11月頃からNetflixで配信されている翠星のガルガンティアを少しづつ視聴していたが、12月頃末頃に観終わった。翠星のガルガンティアは2013年に放映されたアニメで、実は、当時もリアルタイムで観ていたのだが、再び視聴することで本作が傑作であることを再確認した。

翠星のガルガンティア コミック 1-3巻セット (角川コミックス・エース )

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本作には、優生学をテーマとしたシーンがあり、ちょうどそのときに読んでいた「RE:THINK: 答えは過去にある」という書籍で優生学について述べられていたので、いろいろ考えさせられた。

銀河宇宙同盟とヒディアーズ

細かいストーリ説明は割愛するが、翠星のガルガンティアの歴史背景としては、人類銀河同盟という主人公レドが所属する人間サイドの組織と、ヒディアーズという正体不明のエイリアンが大昔から激しい戦いを繰り広げているというものである。翠星のガルガンティアは、主人公レドがヒディアーズとの戦闘撤退時の亜空間航行に失敗し、人類の故郷たる地球へと迷い込むところから始まる。

人類銀河同盟における優生学

人類銀河同盟では、ヒディアーズとの激戦を生き残るため、資源の有効活用が至上命題とされていた。そこで、劣等な(ヒディアーズと戦闘できないと思われる)人類を切り捨ている。これはすなわち、優生学と呼ばれる考え方そのものである。優生学とは、優れた遺伝子のみを生存させることで社会構造を変革していこうという考え方であり、1883年にイギリスの科学者であるフランシス・ゴルトンが提唱した考え方である。

優生学とは、フランシス・ゴルトンのもともとの考えでは、進化とは即ち適者生存、不適者不生存であり、自然のランダムなふるまいに任せ、苦痛や死によってのみ起こる非常に残酷なものであるため、人工的に人に優しい進化を行おうというものであった。しかし、実際に優生学が実行された方法としては、ナチス・ドイツなどにみられる人権政策である。ヒトラー優生学の信奉者であり、優秀なアーリア人を残すためにホロコーストを行った。

銀河宇宙同盟では、不適格な人類は処分するという優生学的な考えで人類の選別を行っており、これは実のところホロコーストとかわりのないのではないだろうか。

ディアーズにおける優生学

ディアーズとはイカのような見目をした敵性エイリアンであるが、翠星のガルガンティアの話が進むに連れて、実は、人間が遺伝子操作によって進化し、宇宙空間でも生存できるようになった超人類であることが明らかになる。ヒディアーズはもともとはEvolverと呼ばれる革新団体で、地球滅亡を乗り切るために遺伝子操作によって超人類へ進化することで宇宙空間へ飛び出そうとしていた人間のことである。

おそらく、視聴者が翠星のガルガンティアを観て思うのは、遺伝子操作によって人間の形態を失いたくないというものであろう。しかし、レドの所属する人類銀河同盟では優生学的な考えのもと不適格な人類の切り捨てが日常的に行われていたらどうだろうか?もし、人類銀河同盟に切り捨てられる運命の人物がいて、Evolverに属して超人類に進化することで生存可能になるとしたらどうだろうか?

積極的優生学

人類の歴史を見てみると、ホロコーストなどのような消極的な優生学はすでに様々なところで実践され、今では禁忌とされている。しかし、遺伝子操作技術の革新により、遺伝子に改良を加えることでより適した遺伝子を持つ人類へと進化させることが可能になりつつある。

では、このような積極的に優勢な遺伝子を作り出していこうという行いについては、私達はどう考えるべきだろうか。遺伝的疾患を持つ胎児を治療することが許されるのならば、より知性の高く、肉体的に優れた人類を遺伝子操作によって作り出すことが許されるのではないか?

もし、優生学的な政策により切り捨てられるか、遺伝子操作によって生存の活路を見いだすかのどちらか一方を選択しなければならないとき、自分はどうするのだろうか。そのようなことを翠星のガルガンティアを観ながら考えていた。

しかし、チェインバーに搭乗できる可能性があるなら、人類銀河同盟も悪くないかもしれない。何故ならば、ラストのブリキ野郎のシーンはカッコ良すぎるのだ。