【読書メモ】操られる民主主義 デジタル・テクノロジーはいかにして社会を破壊するか

どくさいスイッチ

ドラえもんの秘密道具の一つにどくさいスイッチという道具があるが、このスイッチを使うとどんな命令でも叶えることができる。では、もしも現実にどくさいスイッチのようなものがあったとして、そのボタンを押すことが出来たとしたら、我々はどうするだろうか。例えば、そのスイッチを押すと、好きの人の心を自在に操ることが出来たり、大金持ちになれたりするとしたら、どうだろうか。操られる民主主義という本では、このどくさいスイッチは実在していたと思わされるような内容が書かれていたので、適当に思ったことを書きなぐりたい。

操られる民主主義: デジタル・テクノロジーはいかにして社会を破壊するか

操られる民主主義: デジタル・テクノロジーはいかにして社会を破壊するか

 

ケンブリッジ・アナリティカ

つい最近、ケンブリッジ・アナリティカというコンサル会社が米国での2016年トランプ大統領選に一枚噛んでいたということで大きな問題になった。同社はそれ以外にも、イギリスのEU離脱Brexit)にも大きく関わっているということが明らかなり、こちらも大変物議を醸し出している。

2016年のトランプ大統領選やBrexitで彼らがとった手法は、Facebookなどの個人情報を取得してデータマイニングを行い、トランプに投票しそうな人、あるいはEU離脱に参加しそうな人をアルゴリズムによって見つけだし、そういった人々らにターゲット広告を行うことで投票行動を変えてくというものである。例えば、車のフォードの所有者はトランプ支持に回る可能性が高いとアルゴリズムが導き出したため、フォード所有者に右寄りなターゲット広告を見せることでトランプ支持者に変えていったのだ。この手法の成果はめざましく、ヒラリー・クリントンの所属する民主党が絶対と言われていたペンシルバニア州ではなんとトランプが勝利した。

このような仕組みが明らかになってくると、疑問に思うことが出てくる。私達が使っているSNSでの投稿や閲覧は、自分たちが思っている以上に、私達の意思をコントロールするために使われているのではないだろうか。

21世紀のプロパガンダ

一般的な道徳観念や倫理観などに照らしあわせると、人間の自由意志を奪うような行為は良くないと考えられる。それに、民主主義とはそもそも、私達には自由意志があり自分自身で行為を決定できるという前提があるからこそ成り立つのであって、誰かからコントロールされるようでは、到底民主主義と言えないのではないだろうか。

ケンブリッジ・アナリティカのようなアルゴリズムによる方法ではなくて、誰かに扇動されるような民主主義はこれまで幾度も行われてきた。従来まではそれらはプロパガンダと言われたが、これが今世紀になりかなり巧妙になりつつある。しかも、この流れは止まるどころか、今後加速していきそうな気配しかない。ケンブリッジ・アナリティカの件は今回運悪く発覚してしまったが、今後はより巧妙に事がなされるだろうとは容易に想像される。

私達ひとりひとりは極めて道徳的で倫理的な人間であったとしても、実はどこかにどくさいスイッチを持っている少数の人々がいて、私達をコントロールしているとしたら、私達はどうすべきだろうか。

プライバシー

プライバシーというと、自分の秘密の情報を知られるのはなんとなく気持ち悪いから必要だと思われがちであり、特に企業のような組織からみると、個人のプライバシーなど大して重要なことではないと考えているフシがある。しかし、実はプライバシー情報とは、大量に集めることで誰かをコントロールすることができるようになるという、どくさいスイッチそのものだったのだ。

プライバシー保護するための技術も色々と提案はされている。例えば、暗号技術の秘匿計算などはその最たる例だろう。ただこれらはパフォーマンスなどの面で技術的な課題がいくつかある上に、そもそもGAFAのような国際的企業に対する強制力もないので、これだけで解決するようなものでは到底無いように思われる。

したがって、結局のところ我々市民のリテラシー向上が必要で、今後社会をどのようにしていきたいかを、私達自身で良く考える必要があるのだろう。ほいほいSNSのアンケートに答えると、それをザッカーバーグが集計してターゲット広告のエサにしてしまうのである。

これは受け売りだが、情報はオイルではなく原子力と言ったほうが良く、適切な知識を持って正しく扱わないと、私達の社会を容易に破壊するのだろう。

【読書メモ】僕らはそれに抵抗できない「依存症ビジネス」のつくられかた

コカインは現在では麻薬として禁止されている薬物の一種なのは周知の事実だと思う。麻薬が問題で禁止されている原因はその依存性の強さにある。しかし、このコカインは19世紀から20世紀のはじめには普通に市販されていたのもまた事実である。コカ・コーラのコカはコカインのコカから来ているのは有名な話である。では、なぜ依存性がこれほど問題になるかというと、これもよく知られている通り、その事以外ができなくなり、働いたり、家族と過ごしたり、トイレに行ったりという極めて一般的な生活を送ることが困難になってしまうからだ。

聞きかじったところによると海外などでは比較的用意に麻薬が手に入るっぽいが、日本の場合だとかなり厳しく取り締まられているためか、手に入れるのは難しいように思う。行くところに行けば入手可能だと思うが、普通に生活を送っている人が手に入れるのは難しいだろう。(プロ野球選手や霞が関では手に入るっぽいが)

『僕らはそれに抵抗できない「依存症ビジネス」のつくられかた』は、現代の依存症について書かれた本でなかなかおもしろかった。

僕らはそれに抵抗できない 「依存症ビジネス」のつくられかた

僕らはそれに抵抗できない 「依存症ビジネス」のつくられかた

 

依存症の世界へようこそ

警察活動などのおかげで我々日本での依存症が根絶されたかというとそうとは言えない。スマホソーシャルゲームやオンラインゲーム、あるいはInstagramなどのSNSは実のところ現代における依存症の最たる原因になってしまっている。

ソーシャルゲームには依存症にさせるための要素が至るところに散りばめられている。例えば、スタミナというシステムがある。このスタミナというシステムでは、数時間ごとに一定数の値が加算されていき、ある値になるとゲームがプレイできるようになる。このスタミナシステムは無料でプレイできてありがたいと思いきや、これが依存症への架け橋となっている。これは、本にもそう書いてあるし、自分も体験したので間違いないので信じてもらって良い。こいつは非常に良くできたシステムである。

スタミナシステムのあるゲームのやりはじめは1. プレイをする、2. スタミナが減る、3. スタミナが貯まり1にもどる、というループだが、だんだんこれが、1. プレイをする、2. スタミナが減る、3. スタミナが溜まってないかスマホを何度もチェックする、4. 依存症になるというループになってしまう。ソシャゲをやったことのない人はそんな簡単にハマるわけがないと思うかもしれないが、事実、このループにいとも簡単に人間はハマってしまう。しかも、スタミナシステムは依存症への第一歩に過ぎず、その後、ギャンブルと同じ射幸心を煽るガチャ、限定イベントなど、あの手この手でプレイヤーを依存症の道へ引きずり込んでいく。

こういった事例は別にソーシャルゲームだけではなく、マラソンみたいなものなどにも広がっていらしい。驚くことに、ランニング距離を監視するスマートデバイスなどにより、マラソンが中毒になってしまうのだ!当然無理な運動を続けた人間は怪我をしたり体を壊してしてしまう。人間、数値が出ると目標がその数値になり本質を見失いがちである。SNSのいいねなども全く同じ構造である。

現代の麻薬製造業

ソシャゲもマラソンもどれもこれも、はじめは楽しむだったり、健康になるという目標だったのに、いつの間にか悔しい思いをしたり、怪我をするために行為を行ってしまっている。ようするに依存症になってしまっている。しかも、現在のインターネットを使ったサービスの多くが人を依存症にさせるように設計されてしまっており、自らを律することが出来ない意志の弱さが悪いとか言った問題ではなくなってきている。昔はオンラインゲームに依存してしまうのは一部のゲームマニアだけだったが、スマホなどの普及に以前とは段違いの人口にリーチしてしまっている。

更に残念なことに、これらを行うためにハイテクの技術、流行りの言葉で言うところのビッグデータ技術や人工知能技術がこれでもかと言うほど投入されている。一流大学でコンピュータサイエンスを学んで生み出しているものが、現代のコカインとも言うべきものであると考えるとなんとも皮肉である。麻薬もたいへん儲かるらしいし、SNSやソシャゲも大変に儲かるらしいし、人を依存症にさせるビジネスはというのはどうも儲かるようにできているのだろう。経済学の需要と供給曲線で考えると、需要曲線がやたら上に押し上げられる感じだろうか。

依存症とその対策

では、このような依存症ビジネスから抜け出すには何をすべきかというと、個人レベルの対策では、まず、環境を変えることが重要だそうだ。例えば、昔ベトナム戦争という戦争があったが、ベトナムに派遣された米軍兵士の間でヘロインが大流行したそうだが、実はヘロインに限らず依存症というのは環境に強く結びついており、米軍兵士がアメリカに戻るとヘロイン依存症から脱却できたそうだ。しかし、一旦同じ環境に戻ると再び依存症が再発したらしい。

当時、麻薬中毒というのはその薬物自体が原因であり、環境などは全く関係ないと考えられていたので、この発見は相当の驚きだったらしい。おかげでこの学説が発表された当初は全く受け入れられずに苦労したそうだ。いつの時代も、新しい考えはなかなか受け入れられないようで大変である。

環境といえば、現在のデジタル環境はとにかくデータを取得されて、人間を依存症にさせることに最適化されすぎている。個人的に特に最悪な発明だと感じるのがプッシュ通知で、放っておくと毎秒通知が届く羽目になり、通知を確認するだけで人生が終わってしまう。集中しているときに通知がくるのは最悪で、最近は通知を全てオフすることを決意し、数時間おきにこちらからポーリングするようにした。通知を全オフにして以降はなかなか快適なデジタルライフを送っている。通知全オフは全人類におすすめしたいソリューションである。脱依存症ライフを送ろう。

今の処、個人情報を扱うようなビッグデータ人工知能はろくなことに使われていないのではないかという気もしてくるが、IoTとか無邪気に言っている諸氏らはここらへんはどう考えているのだろうか。気になるところである。依存症が問題で麻薬などは規制されているのに、デジタル版のコカインとも言うべきサービスは放置してよいのだろうかと疑問も湧いてくる。

さらに、依存症ももちろん問題だが、最近のSNSを通じた選挙などを見ると民主主義の根幹を揺るがすような自体にも発展しており、今後の情報化社会には暗澹たる思いにならざるを得ない。選挙などの話はまた別に紹介したいが、社会5.0とか言っている場合ではないぞという気持ちになってくる。やれやれである。

【読書メモ】天才とは何か

実は、世の中には天才と呼ばれる人がたくさんいるだろう。クラスの中の天才や、会社の中の天才などである。今回読んだ『天才とは何か』という本は、そういった巷にありふれている天才ではなくて、後世に重大な功績を残した、例えばアインシュタインやバッハのような、真の天才について書かれた本である。

天才とは何か

天才とは何か

  • 作者: ディーン・キース・サイモントン,小巻靖子
  • 出版社/メーカー: 大和書房
  • 発売日: 2019/03/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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数学者は人生の早くに功績をあげるが早く死ぬ

本書では、天才はいつ頃功績を残すかや、どのくらいの頻度で功績を残すか、その家族構成などが議論されているが、自分が一番気になったのは、数学者は人生の早い時点で重要な成果を残し、他分野の天才よりも早く死ぬ(平均して6年も!)ということだ。確かに天才ガロアは若くして代数学の分野で重要な成果をあげたが、決闘によって20才のという若さで亡くなっている。しかし、決闘で死んでしまう数学者は稀だろうから、他に何か要因があるのだろうと思う。

残念ながら本書では天才数学者の死因トップ10のようなランキングは乗っていなかったので、その正確な原因はわからないが、確かに天才数学者はあまり良い人生の結末を迎えていない人が多いように思う。

無限について深い洞察を与えたカントールは、自身の業績が認められずにうつ病になってしまっているし、同性愛者であったチューリングも精神を病んでしまっている。ナッシュ均衡のナッシュも統合失調症であったそうだし、思い当たる節が多すぎである。

概念的クリエイターと実験的クリエイター

本書で述べられていた、概念的クリエイターと実験的クリエイターという概念も面白かった。概念的クリエイターは突然閃いて仕事をする人のことで、こういうクリエイターは人生の早い時期に最高の仕事をし、実験的クリエイターは、探求しながら徐々に進んでいくので、膨大な量や知識を備えた人生の後半に最高の仕事をするそうだ。

自分の専門分野はシステムソフトウェアであるが、周りを見渡すと多くの人が実験的クリエイターであるように思う。若いときは知識とスキルが追いつかないので、どうしても時間がかかってしまう。もちろん自分も実験的クリエイターである。

ただ、概念的クリエイター、実験的クリエイターのどちらも、膨大なアウトプット量という下地の上に創造的な産物が得られるそうなので、数は力である。天才になりたければ、とにかくアウトプットするしかないのだ。悲しい現実だが、しょうがないので、日々少しずつアウトプットしていこう…

不完全性定理の理解不完全性

大阪大学に赴任してから半年たったぐらいの2019年2月頃に、離散数学と計算の理論という題目の講義を4月から担当することに決まった。その理由は、その講義を元々担当していた当時研究室の准教授だった先生が、他大学の教授へとご栄転されることが決まったからである。

自分はネットワークシステム、分散・P2Pコンピューティング、ネットワークセキュリティが専門でどちらかというと実装よりなので、数学はあまりやってこなかったのだが、今はプログラミング言語理論を習得するために論理学や計算モデルを勉強していたので引き受けることにした。この講義は大阪大学のProSecというコースを申し込むと、社会人でも受講することができるようになっている(コースは有料だけど)ので、詳細は「大阪大学 prosec」で検索してほしい。(現5月時点で申し込むと、秋からの受講になるだろうが)

プログラミング言語を真面目に初めた理由は、最近はネットワーク業界でもソフトウェア定義や、プログラマブルスイッチなどと言われているため、数年後にはプログラミング言語理論の知識が必要になるのではないかと漠然と思っていたからであった。実際に活かせるかどうかはこれからの研究にかかっているので、乞うご期待といったところである。

そんなこんなで講義を担当することが決まり慌ててシラバスを決めたのだが、自分の担当は以下のようにした。

  1. 命題論理
  2. 述語論理
  3. 計算可能性
  4. 不完全性定理
  5. λ計算
  6. 型システム

4回で不完全性定理まで行くのはかなり駆け足な気がするが(2人の先生で15回なのでこんな感じに)、大阪大学の学生は優秀なので大丈夫だろう。問題は自分の方である。内容を決めたは良いが、勉強のし直しが大変だった。3月からは、家に帰ってからは数学の本を読むことに時間を使った気がする。今はゴールデンウィークだが、不完全性定理はめちゃくちゃ大変で、ゴールデンウィークの半分は不完全性定理で消えてしまった。なぜシラバスに入れたかと自分を恨んだりもしたものだ。ツライ。

不完全性定理を学ぶ上でいろいろな文献を参考にしたが、数年前に買った「コンピュータは数学者になれるのか?」という書籍がとてもためになった。しかし、この本は一般書の顔をしているが数学がある程度わかる人向けなので、誰得感が否めない。前半の1、2章で述語論理の導入から初めて不完全性定理まで行くというハイペースぶりである。自分はとてもためになったので、俺得ではあるのだが。まだ不完全性定理の理解は不完全なので、今後はもう少し落ち葉拾いをしていきたい。

この講義では簡単な原始帰納的関数Haskellで実装したり、型付λ計算で簡単な型推論エンジンを実装したりもする予定なので、内容的にはかなり面白いのではないかと思う。特にうちは工学部なので、数学をプログラミングに活かせたほうが学生にもよいだろう。

他にも、大阪大学のProSecでは、ファイアウォール演習、レジスタマシンのエミュレータ実装演習、多層防御の演習なども自分が担当する予定なので、こちらも準備しないといけない。無事に乗り切りたいところである。

【読書メモ】RE:THINK: 答えは過去にある

過去のアイデアを再考する

新しいアイデアを生み出すことが技術や社会に革新をもたらすと私達は思うかもしれない。しかし、多くの場合、新規アイデアや新製品などは、過去に誰かが考案したものである。「RE:THINK: 答えは過去にある」ではそのような事実を指摘し、新規性も重要だが過去のアイデアを再考することも同様に重要であるとの気づきを与えてくれる。

ルネサンス期の新規性

古代ローマで哲学や科学や大きく進歩して、13世紀頃から16世紀頃にかけて、古代ローマの哲学や科学がヨーロッパに再輸入された。その頃の、最新科学と言えば古代ローマの知識のことであった。まさに、いにしえのファイナルファンタジーや、∀ガンダムの世界である。

ルネサンス時代、重力を発見した科学者がいた。かの有名なニュートンである。当時の先端科学と言えば、古代ローマ人の考えた知識のことであり、それこそが権威であったため、ニュートンは重力を自分の発見とするのではなく、古代ローマから考えられていたと嘘の説明しようとしていた。実際には、その説明はプリンキピアには載らなかったが、載せようといしていたそうだ。ニュートンは新たに発見を行ったが、昔は、過去のアイデアこそ最も考察すべき対象であった。

デモクリトス古代ローマの哲学者であり、原子論を提唱した人物でもある。しかしその原子論はデモクリトスの提唱後約2000年間も忘れ去られ、19世紀初頭になってようやくイギリスの科学者ドルトンが再び提唱し、20世紀頃に科学的に観測された。実は、この例のようなことが非常に多くある。

例えば、電子タバコや電気自動車などは、一度は失敗し頓挫したアイデアであるが、再考され広まったアイデアである。その他にも、ベーシックインカム、麻薬や覚醒剤の医療目的利用などなど、いろいろな物がある。アイデアは実は過去に様々考案されているが、それが重要かどうかは、その当時の社会規範、技術的限界、権力者などに依存して決定してしまう。新規性というのは、実は、過去にこそあるのかもしれない。

ここで、個人的に、本書の中でも特に面白かった民主主義について紹介しよう。

民主主義とは何なのか

現在の政治は、議会民主主義に則り代表者を選挙で選出して代表者が統治を行うものである。しかし、政府は裕福な利権団体の犬であり、専門職と化した政治家には2世、3世の議員が多く、自分たちの権力を永続化させることにしか興味がない。しかも、2〜4年周期で行われる選挙では、地球温暖化少子化といった長期にわたる政策はとれない。民主主義はすでに死んでいるのだ。実は、このような見解は、100年以上も前の19世紀頃から暗に陽に指摘されていたらしい。

ここで、古代アテネの考える民主主義についてみてみよう。古代アテネ(加えて大半のヨーロッパの時代)では、選挙は極めて貴族的な官僚選出方法だと考えられていた。貴族制とは即ち、人民なかで最良の人物に統治させることであり、選挙で最良の人物を選ぶことは貴族制に他ならなかった。

古代アテネでは主要な4つの都市のうち3つで、くじ引きによるランダムな選出を行って統治者を選んでいた。ランダムに複数人選べば、平均的には、人民の総意が政治に反映されると言えるのではないだろうか。そもそも、現代の議会民主主義は、貴族制なので再考すべきではないだろうか。

かなり過激な案ではあるが、民主主義というものをよく考えるためには面白い考えであると思う。この案ならば、大統領が暴走したり、ウォール街が利権を貪ったりはしないかもしれない。真実はわからないが、このように、過去には再考すべきアイデアが多く眠っている。温故知新である。

本書では、このように多くの過去のアイデアについて述べられており、なかなか楽しく読めた。他にも優生学については考えさせるところもあったので、また後日紹介したい。

炎と怒り トランプ政権の内幕 (早川書房)

炎と怒り トランプ政権の内幕 (早川書房)

 

【読書メモ】最後の資本主義

 ロバート・B・ライシュというとクリントン政権時代の労働長官であり、現在はカリフォルニア大学バークレー校 ゴールドマン公共政策大学院の教授である。

最後の資本主義

最後の資本主義

 

ルールを決める裕福層

本書はトランプ政権誕生前に書かれた経済書であるが、その内容はトランプ政権誕生を示唆している物となっている。よく、小さな政府(自由市場主義)か大きな政府かの対立があるが、本書はそのような二元論ではなく、今の市場ルールが誰の手によって決められているかを明確にすべきと述べている。

従来、アメリカの政治は2大政党制として民主党共和党が台頭している。大雑把に分けると、民主党が労働者のための政党であり、共和党ウォール街や石油産業などのいわゆる資本家と呼ばれる層の政党である。しかし、最近ではウォール街や巨大産業のマネーが民主党にも入り込み、労働者のための政党はどこにもなくなってしまったのが少し前のアメリカであった。つまり、一部の裕福層がルールを彼らを利するように変えてきてしまっていると指摘している。本書の大部分は裕福層がどのようにしてルールを変えてきたかを説明している。

処罰されないウォール街の面々

2008年9月15日、アメリカの投資銀行であるリーマン・ブラザーズが、資産6,910億ドル以上とそれをはるかに上回る負債を抱えて経営破綻した。これを契機に世界規模の金融危機が起こったのがリーマン・ショックと言われる金融危機である。リーマン・ブラザーズは、財務的に弱い体質であることを意図的に隠蔽しており、裁判所が指名した検査官は、これを「注意深く仕組まれた詐欺である」と詳述したが、リーマンの役員経験者で刑事訴追された者はいない。

当時、明らかに犯罪に見えるような行為であっても、大きすぎて潰せないとして、逆に資金投入されて救済されていくのは傍目に見ても大変奇妙な光景であったのを覚えている。このリーマン・ショックは本書で述べられているほんの一例で、このような例は枚挙に暇がない。あからさまに恣意的な采配や不公正が横行したために、多くの人が市場や政府に不信感を持ち、経済ゲームはいかさまだと思うようになった。

いかさまゲーム

自分がいかさまなゲームの犠牲になっていると感じる人々は、全体に損をさせることによってシステムを打倒しようと考える場合が多いそうだ。本書では、次のようなゲームを説明している。

  1. 二人の学生がいて、1,000ドルを二人で分配することにする。
  2. 一人の学生は1,000ドルの取り分、つまり二人での分配方法を決める。
  3. もう一方の学生は、2. で決めた分配で良いか決める。ただし、事前に分配方法は知らされない。
  4. 3. でOKが出たら2. で決めた分配方法で分配し、NGであれば1,000ドルは没収され二人に分配されない。

このようなゲームを設定した場合、2がいかさまして、より多く取り分を取ると考えてしまうと、3. の学生はNGを出すことが多いそうだ。OKを出せば自分にも多少は取り分があるはずなのにである。

これはトランプ政権の誕生理由を思わされるような結果ではないだろうか。実のところ、誰もトランプには期待しておらず、いかさまゲームを打破しようとしているだけかもしれない。それに、今の経済は信用を基に成り立っているのに、その前提である信用が崩れ落ちれば、資本主義経済など成立するはずもない。

ウォール街バーニー・サンダース議員

しかし、ここ最近ではまたその風向きも変わってきているようだ。バーニー・サンダース議員といえば、民主社会主義者を自称する政治家であり、労働者側の政治家であると言える。そのサンダース議員周辺の動きが最近活発になってきているので、次のアメリカ大統領選挙では、前回とは違った様相を示すかもしれない。しかし、サンダース議員もだいぶ高齢なのでどうなるかはわからないが。

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【読書メモ】Learn Better ― 頭の使い方が変わり、学びが深まる6つのステップ

現代日本では、小・中学校は義務教育であるため学習を行ったことのないという人はほぼ居ないだろう。学習するということはつまり、数学や国語などについての知識や技術などを習得するということである。では、学習方法について学習したことのある人は、どの程度居るだろうか?

私達は、小・中学校、高校、そして大学、会社などで様々なことを学ぶが、より効率的な学習方法についてはほとんど知らないのではないだろうか。「Learn Better」は、そのタイトルの通り、よりよく学ぶための様々な方法について解説した書籍である。

Learn Better――頭の使い方が変わり、学びが深まる6つのステップ

Learn Better――頭の使い方が変わり、学びが深まる6つのステップ

 

誤った学習方法

本書では、いくつもの陥りがちな誤った方法についてを紹介している。例えば、以下のような方法は、非常に効率の悪い方法であると本書では述べている。

  1. 外国語で歴史や文学を数学を教えたりする
  2. 漠然とした願望を立てる

外国語で歴史や文学や数学を教えると、脳の短期記憶を使い果たしてしまい、どちらも身につかないし、『うまくなりたい』などの漠然とした願望を立ててもだめである。しかしながら、私達はしばしばこのような方法を取りがちである。

学習するためには脳の短期記憶を利用することが重要である。しかしながら、外国語で教えると、外国語と、教える対象、両方の短期記憶が必要なため、短期記憶の容量がオーバーしてしまう。私達しばしば、短期記憶の容量を過大評価してしまいがちである。

また、『うまくなりたい』というような漠然とした目標も学習のためにはならない。学習するためには、例えば、毎日○時間取り組むなどといった、達成しやすいベンチマークが重要だと述べている。そうすることで、自己効力感、自分は達成できるはずだという感覚を得られ本当の『うまくなりたい』という目標を達成することが出来る。

本書では、このような学習についての陥りがちな誤った例を多くあげ、よりよい方法についても解説している。そのどれもが面白い内容であった。例えば他には、教科書にマーカーを塗るのは学習に意味はない、TEDトークは学習するのに益よりも害のほうが大きいと述べている。もしその理由についても興味があれば本書を手にとってほしい。

教師の役割

本書では、学習時において教師、教師の必要性も説いている。まず初学者が陥りがちなのは、何を勉強すべきかがわからないということであると言う。その道の専門家であれば、何から学ぶかを示すことが出来るが、学習を始めたばかりの入門者がそれがわからないため、それらを示すことの出来る教師が重要であるそうだ。

また、フィードバックも教師の重要な役割だ。学習時において、何を向上させるべきかは学習者自身ではわかりづらい。教師は、学習者に適切にフィードバックする役割を担う。特に、教師と学習者のマンツーマンレッスンは非常に効果的であると述べている。

最近、情報通信技術やインターネット、ウェブの発達により情報取得が非常に容易になった。そのため、大学などはもう必要のないとの言説が聞かれるようになった。たしかに、情報という観点からだけ見ると、すでに情報はウェブ上にあふれているため、大学は必要ないかもしれない。実際、自分自身も大学などはもう必要ないかもしれないと考えたときもあった。しかし、本書を読むと、どうも、教師の役割は知識を授けるということではなく、学習のサポートを行うために存在するようで、まだ大学は必要であるのかもしれない。しかし、英語学習などでは、学習用アプリケーションがフィードバックを行ってくれるため、習得方法が体系化されているものについては、話が変わってくるかもしれないとも感じた。

 

臨界期説

臨界期という考え方がある。ある程度の年齢を重ねると、物事を学習することができなくなるという考え方である。プログラマ35歳限界説などが臨界期説の一つと言えるだろう。しかし、本書では臨界期説は否定されている。

例えば、伊能忠敬は50歳のときに、19最年下の当時31歳であった高橋至時に弟子入りし、天体観測や測量の勉強を行ったとされる。また、葛飾北斎が波を書き始めたのは30代の頃で、富嶽三十六景・神奈川沖浪裏として完成したのが北斎が72歳の頃であるそうだ。

年齢を理由に学ぶことをやめてしまっている人が多くいるが、学習する能力は失われていないのに辞めてしまうのは、それは大変もったいないことなのだろう。

千変万化に描く北斎の冨嶽三十六景 (アートセレクション)

千変万化に描く北斎の冨嶽三十六景 (アートセレクション)

学習は人間の基本的欲求

人間は考える葦であるとはパスカルの言葉である。人は、新しいものの探求を行うと快感を与えるドーパミンが放出され快感を覚える。つまり、学習は、食事、睡眠、セックスと同じ欲求であると本書は述べている。強制されて行う勉強は退屈すぎるが、新しいことを学ぶのは楽しいのだ。本書は学習について知る上で大変おすすめなのでぜひ読んでほしい一冊である。