【読書メモ】史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち

西洋哲学は科学へと発展していったことからもわかるように、世界の理を体系的、実験的に明らかにしようとしていた。一方、東洋哲学は、世界の理ではなく、自己の内面を解き明かす方向へ向かっていた。しかしながら、それは観測可能な事象ではなく、形而上的な問であった。本書では、その東洋哲学の説明を、極力わかりやすいように説明している。

梵我一如

仏教などの始祖となる東洋哲学は、紀元前800〜500年頃におきた古代インドでのウパニシャッド哲学が始まりであると言われている。ウパニシャッド哲学最大の哲人ヤージュニャヴァルキヤらの提唱した、梵我一如が名を変え、無我、空などとして今日に伝わっているのだ。梵我一如とはブラフマン(梵、世界の根本原理)とアートマン(我、自己、私)が同じになると説いている。これは、我とは何かを考えに考えた結果至った一つの解であるとも言える。

例えば、私というのはいろいろな属性がついている。住んでいる場所であったり、働いてる場所であったり、通っている学校であったりと。では、住んでいる場所が違ったとしたら、私は私で無くなるだろうか?そんなはずはなく、場所が違っても私は私である。では、もし違う職場や学校に通っていたら、私は私で無くなるだろうかというとそうではない。私が私であるために必要なものは実は何もなくて、私、アートマンブラフマンと全く同じであると述べている。

悟り

 西洋哲学では、知識の体系化が極めて重要視され、誰が観測、推論しても同じ結果であることが何よりも重要視された。これはアリストテレスの分類を起源とし、こんにちでは学問と呼ばれている。一方、東洋哲学は知識よりも、悟りを重要視していた。

悟りとは、自己の体験による知のことで、書物などで得た知識ではなく、自己の体験として強烈にわかったという間隔がないと知ったとはいえないという事である。例えば、火にあぶられると痛いと知識では知っていても、自己の体験によって火にあぶられると痛いと知らないと悟ったとはいえない。

東洋哲学では、この悟りによって梵我一如、無我、空を知る必要がある。悟りも良い面は有るだろうが、日本はもともと仏教の国であり、この悟りを重要視した結果、現在でも無駄な経験をさせるという自体が横行しているのではないかと勘ぐってしまった。

形而上の問い

東洋哲学は基本的に形而上における思考である。形而上学とは英語で言うとMetaphysicsであり、形而下の学問はPhysicsと呼ばれている。Physicsはすなわち、形のある物理現象の学問であり、Metaphysicsは物理現象では観測不可能な学問である。従って、その論理の正しさを観測によって裏付けることはできない。しかし、その問いの方法や、考え方は形而下、あるいは社会科学などに密接に結びついていると思われる。本書は、その形而上の問題について、東洋哲学が辿った軌跡の説明を試みている。ただ、本書はまだわかりやすい方だととは思うが、いかんせんトピックがトピックなだけに難しいところもあるだろう。

刃牙よりガンダム

本書はグラップラー刃牙的に強い論を紹介していくという体で説明しているが、刃牙的な成分はあまりなく、ガンダム成分が散見された。しかし、ガンダムネタは『機動戦士ガンダム00』を見てないとわからないと思う。