ドーナツの穴だけ残して食べると何が残るか

ドーナツの穴問題

ドーナツには穴がある。これはみんな納得することだと思う。

 

ドーナツは、卵、小麦粉、油、砂糖などを原材料として作られている。

では、ドーナツの穴を食べないように、注意深く、卵、小麦粉、油、砂糖で出来たドーナツの周辺のみ食べたら、そこにはドーナツの穴のみ残るのだろうか?

 

穴がある、とは一体何なのか。無いものがあるのか。

「ある」とは

私たちは普段、まさに存在するものについて「ある」と言っているように見えるが、ドーナツの穴のように、無いものも「ある」と言っている。

「ある」とは一体どういった事を指すのか。無があるとはいったい何なのか。

差異のシステム

職場でドーナツの穴問題を話題にした所、哲学科出身の人から、そのような問題は古典的な存在論では説明することは難しいが、ソシュールの差異のシステムで説明できると言っていた。これは関係ない話だが、職場のミーティングでドーナツの穴だけ残して食べるとどうなるかが議題に上り、業務内容そっちのけでその日一番の大盛り上がりをした(業務内容の議題は別にちゃんと行った)。

差異のシステムとは、すなわち、物事の差異を我々人間が認識できる(機能的または文化的に)からこそ、それを表す言葉があるという事である。例えば、フランスでは「蝶」と「蛾」を区別する文化がないため、両方共「パピヨン」と読んでいるが、日本では、その差を認識できるため違う言葉を用いている。

差異のシステムによると、穴がある状態と無い状態を、私たちが認識できるため、それを表現する「穴」という言葉を利用していることになる。

穴の哲学

このドーナツの穴問題は、「哲学がわかる 形而上学」という本に少し触れられていたのだが、「ドーナツの穴だけ残して食べる方法」という本もあると紹介された。こちらの本はまだ読んでいないので、今度読んでみたいと思う。

哲学がわかる 形而上学 (A VERY SHORT INTRODUCTION)

哲学がわかる 形而上学 (A VERY SHORT INTRODUCTION)

 
ドーナツを穴だけ残して食べる方法 越境する学問―穴からのぞく大学講義

ドーナツを穴だけ残して食べる方法 越境する学問―穴からのぞく大学講義

 

 

 

【読書メモ】ノンデザイナーズ・デザインブック

ノンデザイナーズ・デザインブックは、そのタイトルが示すとおり、デザインを本職としない人がデザインするために意識する事をまとめた本となる。

ノンデザイナーズ・デザインブック [第4版]

ノンデザイナーズ・デザインブック [第4版]

 

 デザインの4原則

本書は、デザインを行うために注意すべき点は、以下の4つであると述べている。

  1. 近接
  2. 整列
  3. 反復
  4. コントラスト

近接は内容が同じものを近くに配置することで、整列はアラインメントを極力揃えること、反復は同じパターンを繰り返すことで、コントラストは強弱をはっきりつけることである。しかし、言葉にするよりも、本書に記載されている作例を見たほうが分かりやすいと思う。

パワーポイントなどのプレゼンツールの普及により、デザインを本職としない人も、デザインする必要が出てきている昨今、パワーポイントやポスターなどを作る人は、本書で一度学んだほうが良いだろう。ページ数も257ページしかなく、しかも、その6〜7割ぐらいは図表となっているので、読み終えるのも時間がかからないはずだ。

ただ、本書はもともと英語で書かれた本であるため、作例の多くはアルファベットベースであるのが少し残念な所である。日本語の例も翻訳本には載っているが、若干わかりにくくなっている感は否めない。

何故良いデザインになるのか

本書を見て思ったのは、確かに、上記4原則を守ってデザインされた作品は、大変見栄えが良いのだが、そもそも、何故上記4原則が必要なのかは書かれていない。本書はHow toを教える本なので、そのようなことを追求するのは本書の趣旨とは外れるので書かれていないのは当然といえば当然なのだが。

例えば、整列していなくても情報量的に変わらないはずだが、整列したほうが断然分かりやすく感じてしまう。多くのパワーポイントではタイトルが中央揃えで、本文が右揃えの場合が多いが、本書の原則通りスライドを作ると、大変綺麗に出来上がる。情報量的に変わっていないはずなのに、この差はどこから来るのだろうか?これは、おそらく人間の認知に関わる問題に思えるが、不思議である。そんなことを本書を読みながら思った。

スライドを作る人は読むべし

結論から言うと、パワーポイントなどをよく作る人は読んでおいたほうが良いだろう。本書でなくても良いかもしれないが、デザイン入門書は1冊だけでも良いので目を通したほうが良い。特に、デザイン以外の専門職、技術者、研究者などの人たちは、人に伝えるとかそういうことに対して手を抜き勝ちになってしまうので、How toだけでも学んでおいたほうが良いと思った。

【読書メモ】読書について

 ショーペンハウアー1800年代前半頃に活躍したドイツの哲学者であるが、本書は、そのショーペンハウアーが本を読むことについて語った本となる。

読書について (光文社古典新訳文庫)

読書について (光文社古典新訳文庫)

 

読書とは他人の頭で考えるようなもの

一般的に、 本を読むことは推奨されており、教育などでも読書の重要さを説いている事が多い。一方、ショーペンハウアーは、読書とは、自分の頭で考えるのではなく、他人の頭で考えるようなものだと断じている。確かに、読書をすると知らなかった知識を獲得できるものの、それは自分で考えた上で得た知見ではない。

とはいえ、正しい知識を得るためには本を読むことが必須ではないかと感じる。ショーペンハウアーの時代にはウェブはなかったが、最近のキュレーションメディアの暴れっぷりを見るに、正確な知識はウェブよりも本のほうが上だと感じてしまう。ただ、機械学習技術や情報検索技術の発達により、漫然と知識を蓄えてるだけでは全く意味がなくて、ショーペンハウアーの言うように、自ら思考した上で読書しないと、もしかしたら知的生命体としての人の価値は無くなってしまうのかもしれない。

言葉の乱れは心の乱れ

本書の中盤では、ドイツ語の乱れについて嘆いているショーペンハウアーが見て取れる。曰く、ドイツ語には過去完了形があったのに、なくなってきているのでけしからんとか、そんな感じである。そういえば、日本語も過去完了形が無い言語なので、英語の過去完了形を学んだときはその概念を理解するのに苦労した覚えがある。

そんな感じで、ショーペンハウアーはドイツ語の乱れに大変憤慨しており、ドイツ語をちゃんと使えもしないやつが文章を書くなとか、舌鋒鋭く指摘している。正直、ここらへんは、言葉の乱れにうるさい人が居るのは今も昔も変わらないと思い、読み飛ばしてしまった。ショーペンハウアー先生、ごめんなさい。

自分の頭で考えよ

結局のところ、自分の頭で考えよと言っている本であるが、実際どうなのかという比較試験などは当然無い。哲学書、思想書なので当たり前であるが、自分で考えたほうが良いか、自分で考えずに知識を吸収するだけで良いのかは、答えの無い問いだろう。しかし、思考することこそが人間が人間たる所以かもしれない。我思う故に我ありである。

【読書メモ】史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち

西洋哲学は科学へと発展していったことからもわかるように、世界の理を体系的、実験的に明らかにしようとしていた。一方、東洋哲学は、世界の理ではなく、自己の内面を解き明かす方向へ向かっていた。しかしながら、それは観測可能な事象ではなく、形而上的な問であった。本書では、その東洋哲学の説明を、極力わかりやすいように説明している。

梵我一如

仏教などの始祖となる東洋哲学は、紀元前800〜500年頃におきた古代インドでのウパニシャッド哲学が始まりであると言われている。ウパニシャッド哲学最大の哲人ヤージュニャヴァルキヤらの提唱した、梵我一如が名を変え、無我、空などとして今日に伝わっているのだ。梵我一如とはブラフマン(梵、世界の根本原理)とアートマン(我、自己、私)が同じになると説いている。これは、我とは何かを考えに考えた結果至った一つの解であるとも言える。

例えば、私というのはいろいろな属性がついている。住んでいる場所であったり、働いてる場所であったり、通っている学校であったりと。では、住んでいる場所が違ったとしたら、私は私で無くなるだろうか?そんなはずはなく、場所が違っても私は私である。では、もし違う職場や学校に通っていたら、私は私で無くなるだろうかというとそうではない。私が私であるために必要なものは実は何もなくて、私、アートマンブラフマンと全く同じであると述べている。

悟り

 西洋哲学では、知識の体系化が極めて重要視され、誰が観測、推論しても同じ結果であることが何よりも重要視された。これはアリストテレスの分類を起源とし、こんにちでは学問と呼ばれている。一方、東洋哲学は知識よりも、悟りを重要視していた。

悟りとは、自己の体験による知のことで、書物などで得た知識ではなく、自己の体験として強烈にわかったという間隔がないと知ったとはいえないという事である。例えば、火にあぶられると痛いと知識では知っていても、自己の体験によって火にあぶられると痛いと知らないと悟ったとはいえない。

東洋哲学では、この悟りによって梵我一如、無我、空を知る必要がある。悟りも良い面は有るだろうが、日本はもともと仏教の国であり、この悟りを重要視した結果、現在でも無駄な経験をさせるという自体が横行しているのではないかと勘ぐってしまった。

形而上の問い

東洋哲学は基本的に形而上における思考である。形而上学とは英語で言うとMetaphysicsであり、形而下の学問はPhysicsと呼ばれている。Physicsはすなわち、形のある物理現象の学問であり、Metaphysicsは物理現象では観測不可能な学問である。従って、その論理の正しさを観測によって裏付けることはできない。しかし、その問いの方法や、考え方は形而下、あるいは社会科学などに密接に結びついていると思われる。本書は、その形而上の問題について、東洋哲学が辿った軌跡の説明を試みている。ただ、本書はまだわかりやすい方だととは思うが、いかんせんトピックがトピックなだけに難しいところもあるだろう。

刃牙よりガンダム

本書はグラップラー刃牙的に強い論を紹介していくという体で説明しているが、刃牙的な成分はあまりなく、ガンダム成分が散見された。しかし、ガンダムネタは『機動戦士ガンダム00』を見てないとわからないと思う。

【読書メモ】科学哲学への招待

科学とは一体何か。科学会の末席を汚すものとして、科学について正しく知らなければならないと思い本書を手に取った。科学ってなんだろう。

科学哲学への招待 (ちくま学芸文庫)

科学哲学への招待 (ちくま学芸文庫)

 

科学とは

本書では、科学史的側面、科学哲学的側面、社会科学の3方向から科学について解説している。そもそもサイエンス(science)とは、ラテン語のスキエンティア(scientia)を語源にする言葉であり、スキエンティアはラテン語の動詞、知る(sciō)の名詞形であり、知識や知を意味する一般的な言葉だった。それが現代のサイエンスという意味になったのは18世紀初頭の頃だった。16〜17世紀といえば、ガリレオニュートンデカルトらが活躍した、まさに科学革命がおきた世紀であり、その時代からしばらくして、観察や実験などによって実証された知識のことをサイエンスと呼ばれるようになった。

演繹的手法と帰納的手法

では、その科学という知識についてもう少し詳しく見てみよう。科学的手法には、演繹的手法と帰納的手法の二種類ある。演繹的手法とは、妥当な推論規則をもちいて定理などを導く手法のことである。ようするに、三段論法などを利用してひたすら推論していく方法である。一方、帰納的手法は一を知り十を知るような方法で、観測結果がだいたいこうなっているから全体も同じだろうと結論付ける方法である。実は、この帰納的手法では真に正しいといえることは何もない。

たとえば、我々は太陽は東から昇るということを知っているが、これを科学的な知識として捉えている。しかし、実のところ太陽が東から昇るという観測結果は、今日とそれ以前の日のみで観測されただけであって、明日以降は観測されていないのである。これはすなわち、太陽が西から昇る可能性もあることは捨てきれないという事を意味する。

これを考えるには、次のような実験を想像してみると良い。

  • 箱の中には赤か白のボールがたくさん入っている。何回かボールを箱からとりだしてみたところ、その全てが赤色だった。箱の中のボールは全て赤色だといえるか?

これは、たまたま、その何回かが赤色だっただけかもしれないので、全てが赤色と言えないということはわかるだろう。しかしながら、多くの科学では、箱の中はすべて赤色だろうと帰納的に決定している。

こう考えると、科学とは実に不確かなものに見える。実際、帰納的手法により得られた科学知識はどこまでいっても仮説の域を出ない。では、科学とオカルトを分ける、その差はどこにあるのか考察してみよう。

アブダクション

科学的な発見を説明する方法としてアブダクションと呼ばれる方法がある。アブダクションの前に、一般的な推論について説明しよう。

  • HかつH→Tならば、Tである(モーダスポネンス)

これは、モーダスポネンスという推論規則である。たとえば、雨ならば地面は濡れている(H→T)、雨である(H)という事実があった場合、地面が濡れている(T)という事実を推論できると言っている。アブダクションでは、科学的な発見は以下のようにして行われると説明している。

  1. ある予期しなかった現象Tが観測される
  2. もし仮説Hを真をすれば、その現象Tが帰結として導かれる
  3. よって、仮説Hを真としてみる価値がある

これはすなわち、

  • TかつH→Tならば、Hである

と言っていて、これは論理学でいうところの後件肯定の誤謬と呼ばれる間違いである。これは、たとえば、雨ならば地面は濡れている(H→T)、地面は濡れている(T)という事実から、雨である(H)を推論するようなものである。実際、地面が濡れているのは、水道管が破裂したからかもしれないのにである。

推論的には誤りかも知れないが、科学的な発見は、このように仮説の設定によって行われる。しかし、仮説はあくまで仮説であり、もし仮説が反証されるような事実がでてきた場合は、科学的手法では仮説は棄却される。この仮説に対する反証というプロセスこそが、科学を科学たらしめるものであり、オカルトの知識とは一線を画するものであるといえる。

人工知能には2種類ある。1つはPrologなどに代表されるような、演繹的手法にもとづいて推論を行う人工知能である。もう1つは、深層学習などに代表されるような、帰納的手法にもとづいて推論を行う人工知能である。現在の人工知能は、演繹的手法、帰納的手法で推論を行うが、メタファーや抽象化に基づいた仮説の設定、科学的な発見は、まだまだ人間が行う領域かもしれない。そんなことを本書を読みながら思った。

【読書メモ】国家がよみがえるとき 持たざる国であるフィンランドが何度も再生できた理由

本書はフィンランドの大学教授や元国会議員、小中学校校長など、多数の人物からのエッセイから成り立つ本である。フィンランドの話では有るものの、日本の抱える問題とオーバーラップするような普遍的な話題も多くて、考えさせられる本だった。

国家がよみがえるとき 持たざる国であるフィンランドが何度も再生できた理由

国家がよみがえるとき 持たざる国であるフィンランドが何度も再生できた理由

 

 フィンランドと言うと、教育が素晴らしかったり、男女平等だったり、福祉国家だという印象があるかもしれないが、実際のところは言うほどでもなく、この本を読むと、これらの偏見は如何に間違っているかということが分かる。

例えば、一時期、フィンランドの教育は素晴らしいと世界中から礼賛されたことがあったが、それに対して当のフィンランド教育会自信が驚いていたようだ。というのも、フィンランドの教育は各学校、教師の自主性によることが大きく、これがフィンランドの教育というものが無いそうだ。また、福祉国家という印象も強いが、最近では財政難で福祉予算が削られていき、もはや福祉国家とは呼べないよくある普通の国となっているそうだ。

本書では教育についても、多くのスペースを割いて議論を行っているが、その中に大変考えさせられる文があったので紹介したい。

「国民の形式的な教育水準と経済的繁栄は、良い意味で相関関係にあるが、この関係は、あまりにも額面通りに解釈されたため、質を犠牲にして、形式的な教育制度をますます増長させるようになった。その結果、ほとんどの先進国で、学位がインフレ化 し、学習という概念が表面的になるという問題が生じた。あわせて、学生、教員、教育部門の役人すべてが、「能力と資格」という二つの概念を混同するようになった。」

古市憲寿; トゥーッカ・トイボネン. 国家がよみがえるとき 持たざる国であるフィンランドが何度も再生できた理由

これは、ユッシ・T・コスキという、フィンランドの小中学校校長、著述家のエッセイにある一文であるが、 これについては日本でもよく考えないとならないテーマではないかと思う。

例えば、よく、大学を出たところで何の易にもならないという批判が有り、実際、大学を卒業した人で、大学で何が得られたかを明確に語れる人は多くないかもしれない。しかし、よく考えると、それは、社会、あるいは政治政策がラベルを量産することに執心した結果であるので、それがそもそも正しいアウトプットなのかもしれない。

では、本来、高等教育では、ただのラベルではなく、どんな能力が習得されるべきかを明確に言える人はどれほどいるだろうか。また、大学ではラベルだけなので、大学を潰せば良いという発想だと、そもそも本来、高等教育機関が設立された理念である、高度人材の育成はどこへ行ったのか、よく考える必要があるのではないだろうか。また、工業化や人口知能のすさまじい高度化が進み、単純作業はほとんど人間が行う必要が無くなりそうな昨今、人間がエクセル方眼紙を埋める仕事をするのではなく、学術、芸術、スポーツ、家族との団欒などに時間を使うべきではないのか。そんなことを思わされる本だった。

本書では、教育以外にも、福祉、ニートなどフィンランドにおける色々な話題を取り扱っており大変面白かった。理想国家などそうそうないのだという事がよく分かる。

【読書メモ】サイエンス・インポッシブル SF世界は実現可能か

ミッション・インポッシブルというとスパイ映画を代表する映画であり、トム・クルーズ演じる特殊工作員の主人公が、不可能と思える任務(ミッション)を遂行していく映画である。おそらく、そのミッション・インポッシブルにインスパイアされたサイエンス・インポッシブルというタイトルの本が大変面白かったので紹介したい。

サイエンス・インポッシブル SF世界は実現可能か

サイエンス・インポッシブル SF世界は実現可能か

 

 本書は、SF作品ではおなじみとなった技術が、実際問題どの程度実現可能かを、最先端科学の視点から述べたものである。たとえば、スタ・ウォーズ、スター・トレック超時空要塞マクロスなどでは、超光速航行、つまりワープが多用されているが、このワープを実現するためにはどう言った可能性が得られるかなどが議論されている。

ワープ技術の実現方法は、いまのところ具体的に2種類あると考えられている。1つめはワームホールを利用したものであり、2つ目は負のエネルギーを利用したものである。ワームホールを利用したものは聞いたことはあったが、負のエネルギーを利用する技術は本書で初めて知った。負のエネルギーを利用する方法は、アルクビエレ・ドライブと呼ばれており、負のエネルギーを持つ物質であるエキゾチック物質を用いて空間を圧縮し、その圧縮された空間を宇宙船が航行するという寸法だ。

この負のエネルギーは荒唐無稽なものと思われるが、実のところ、1958年に既に実験室レベルでは観測されているらしい。これは1948年にオランダの科学者カシミールが予言したエネルギーのため、カシミール効果と呼ばれている。問題は、カシミール効果で得られるエネルギーは極めて微小なものであるということだ。

なお、空間を圧縮させて航行するためには、エキゾチック物質を用いて、ビッグバンとビッグクランチを発生させなければならず、これには尋常でないエネルギーが必要だ。そのため、超光速航法を実現するためには銀河レベルのエネルギーをコントロール出来るような科学技術を持つ文明でなければならない。

本書では、このように様々なSF技術について科学的根拠を示しつつ解説を行っている。超光速航法以外には、不可視化、テレポーテーション、タイムトラベルなどが解説されており、これ一冊で良質なSF作品をいくつも視聴した感覚を覚える、大変オススメの書籍である。