『禅とオートバイ修理技術』を読んで美について考えた

ハヤカワの本が安売りしていたので、禅とオートバイ修理技術という本を読んでみた。クオリティの話をしながらアメリカをオートバイで横断していくロードムービー的な話なのだが、懐かしようなやたら難しいような、それでいて引き込まれ考えさせられるような不思議な本だった。1974年にアメリカで発売された本だが、今でもその内容は色あせないのは、やはり主題が普遍的だからだろう。

クオリティ

この本の主題にクオリティの話があるが、正直分からなかった。いや、正確には、わかったとわからないを繰り返しながらアメリカを旅していくような気分になっていた。これは、自分の読解力が足りないというよりかは、そもそも著者自身も本の中でわかったとわからないを繰り返しているのでしょうがないとは思う。

最終的には著者はある到達点へたどり着いているぽいが、自分がそこへたどり着いたかは分からない。工学的な意味でクオリティを考えると、ある尺度に照らし合わせてその善し悪しを定量的に測れる指標ではある。たとえば、大きい方がクオリティが高いと決めると、AカップよりEカップの方がクオリティが高い。しかし、これはその尺度を定義したことによって恣意的に生まれたクオリティで、小さい方が希少価値がありステータスだという考えももちろんできる。
ということは、クオリティというのはこういう恣意的な定義がされる前に実在するように思える。

芸術の美と科学の美

クオリティと似たように言葉に、美というものがある。美とはおそらく芸術や音楽などに主に用いられる言葉である。ではあるが、技術者や科学者と接してみると、数式やプログラムのソースコードに美を見いだしている。たとえば、オイラーの公式の美しさや、巨大なシステム設計の美しさとかに彼らは美を感じているのだ。とすると、ここで疑問が浮かんでくる。芸術の美と科学の美は同じモノなのか?

この本でもこの問題についてはさらりと述べられているが、それほど考察はされていなかったので、ここで自分なりの回答を示したいと思う。美はおそらく、この本でいうところのクオリティよりも具象化されたモノなので、クオリティの理解には到達しないまでも近づいているのではと思う。

美であるが、端的に言うなら調和に集約されるのではないかと思う。おそらく、芸術的な美にまず求められるのは、ごく短時間で調和を感じられることではないだろうか。まず人が見て整っている、整列している、ある種の関係がバランスよい、意外な関係で成り立っているなどと、調和が理解出来るときに、人は芸術的な美を感じるのではないか。逆に、科学的な美は、長い時間かけて習得した事実と照らし合わせて、対象に調和が認められるときに美を感じるのではないかと思う。ということは、芸術的な美も科学的な美もその本質的なところは同じであるように思われる。もちろん、芸術にも何かしらの技法が凄くてそれに関して美しさを感じる人々もいるだろうが、そうするとそれはどんどん科学の美に近づいていくのではないだろうか。

では、調和が客観世界に存在するのか、主観世界にしか存在しないかという疑問が次に出てくる。これがなかなか難しくて、調和というのはおそらく、なにかしら数値化、数式化できるように思える。しかし、それを感じるセンス、教養がなければ美を感じることはできず、何人たりとも感じられない調和は美しいのかという疑問がわく。つまり、オイラーの公式が発見される前でもオイラーの公式は美しいのかという疑問が出てくる。ここまでくると自分には手の負えない問題となるのだが、本書ではたどり着いているようだ。色即是空、空即是色。

アンドロイドの感じる美

芸術的な美と科学の美について、同じだが理解に必要な時間的なスケールが重要ではないかと述べた。これはもしかしたら、速いがヒューリスティクスな思考回路であるシステム1と、遅いが論理的な思考回路であるシステム2のどちらで調和を感じるかかもしれない。システム1とシステム2とは、ファスト&スローで詳解されている思考回路の区別であるが、これと調和、美は関係ありそうだ。

とすると、もしもヒューリスティクスではなく、論理思考のみ行うアンドロイドが誕生したら、調和の受け取り方は大夫異なった様になりそうだ。コンピュータの場合、探索は幅優先か深さ優先かで行われるが、大勢のアンドロイドが幅方向で探索しているのにもかかわらず、ある気の狂ったアンドロイドが深さ優先で探索しつづけて、ある意外な調和を発見したときにのみ美しいと思われるのかもしれない。というわけで、アンドロイドの美は、人間の美とは一見全く違うモノにはなりそうではあるが、その本質は変わらないような気もする。将来は、人間は、アンドロイドの感じる美について講釈を受けて、全くわからんと言っていそうである。

以上が本書を読んで感じたことだが、明確な答えというものにたどり着いたという実感はないが、近づいたかなと言う感じである。世界は難しい。