【読書】『同志少女よ、敵を撃て』を読んだぞ!

『同志少女よ、敵を撃て』は、ロシアのウクライナ侵攻が始まる前に発売された書籍で、発売当初から個人的に注目していた。発売されたときは、積み本が山のようにあったので見送っていたのだが、情勢も情勢だけに読んでみることにしたが、非常に面白かった。アガサ・クリスティー大賞を受賞されたそうだ。しかし、アガサ・クリスティー賞は長編推理小説に贈られる賞らしいが、「推理小説」とは一体何かわからなくなった。

推理小説というと、『シャーロック・ホームズ』や『江戸川乱歩』など、何かの事件を解決していく小説のように思われるが、『同志少女よ、敵を撃て』は第二次世界大戦独ソ戦あたりを時代背景とした時代小説という感じをうけた。「面白ければよかろうなのだァァァァッ!!(ジョジョの大冒険 第2部 カーズ)」の精神なのかも知れない。内容的には、戦争、復讐、狙撃、男女平等、百合といった要素で閉められていて、推理要素はあまり無かったように思う。

舞台は、最近何かの話題のウクライナ周辺の、ニュースで見たことある地名が多くでてくるので頭に入りやすい。あまりポジティブに捉えるのもどうかと思うが、そのおかげでより世界観に入り込めるのも確かだ。ソ連というと、内務人民委員部、通称NKVDという秘密警察が有名だが、そういった組織や連中も登場するので特殊組織好きにはたまらない。しかも、NKVDの連中と主人公がアレでコレでそうなるのでたまらない(ネタバレのため自粛)。このあたりのストーリーは個人的に特に気に入っている。

ソ連というと、当時は物資がない上に自国民の命を使い捨てすることで有名だ(これは今のロシアもそうかもしれない)。ソ連には武器が足りないため、2人で1丁の銃しか支給されなかったのはあまりにも有名だ。1人が銃を持ち、1人が弾を持ち、銃を持った方が死んだら、弾を持った方が銃を拾って戦うらしい。しかも、敵前逃亡すると味方から射殺され後退は許されない。Welcome to Hell!

たしか、ここら辺の描写が『Call of Duty: World at War』というゲームにあったような気もするが、記憶違いかも知れない。独ソ戦は歴史上最悪の地上戦とされているらしく、『同志少女よ、敵を撃て』の舞台の1つでもあるレニングラードでは、食糧不足のため人肉食もあったそうだ。『同志少女よ、敵を撃て』では、このような事実は幾分マイルドに表現されていて、良くも悪く戦争の悲惨さの描写は薄れていて、エンターテインメントに仕上がっているように感じた。それでも、歴史を多少知っておくと、より楽しめる気がした。

同志諸君、『同志少女よ、敵を撃て』はいいぞ!読むつもりはない?よしわかった、貴様はシベリア送りだ。

【読書】三体を読んだぞ!

三体問題は物理学で有名な問題で、2つの物体が相互作用する場合はその挙動は解析的に解くことが出来るが、これが3つ以上となると解析的に解くことが出来ないという問題である。三体は、この三体問題をテーマとした中国発のSFで、以前からその噂は耳にしていた。しかし、分厚い書籍が5冊もあるので読むのを躊躇していたが、気がつくと2ヶ月弱であっという間に5冊すべて読み終えてしまった!三体、恐ろしい子

三体Ⅱ 黒暗森林(上)
三体Ⅱ 黒暗森林(下)
三体Ⅲ 死神永生 下
三体Ⅲ 死神永生 上

翻訳が良い

三体のまず素晴らしいのは、翻訳が大変素晴らしくて非常になめらかに読めることだと思う。個人的な経験上、海外作品は翻訳がどうもあわなくて読み通せないことがしばしばあったが、三体に限って言うとそう言ったことはなくてすらすら読めた。まるで日本人が書いたような読み口である。

ただ、やはり海外作品なので、はじめは人名を覚えるのがつらかった。たとえば、葉文潔はイェ・ウェンジェと読むのだが、これを覚えるのが本当に難儀していた。しかし、葉文潔をヨウ・ブンケツと音読みで覚えることで解決した。本書の中では葉文潔(イェ・ウェンジェ)と読み方が降ってあるが、私のように人名を覚えるのは苦手な人は、本格的な読み方は諦めて音読みで覚えておくと読みやすいのではと思う。

三体III 死神永生が好き

三体は全部で5巻あり、そのうち三体、三体II 暗黒森林(上)、三体II 暗黒森林(下)の3冊で1つのストーリー、三体III 死神永生(上)、三体III 死神永生(下)の2冊でもう1つのストーリーという構成となっている。中国では三体II 暗黒森林の評判が良いようだけれど、個人的には死神永生の方が好きだ。

もちろん暗黒森林もとても面白くて、我々の軍隊があれであれされるところなどは本当に面白くて、夜も眠れず気がついたら明け方になっていました。おかげさまで次の日が本当につらくて、ひどい目に遭った。おのれ。

暗黒森林はどちらかというと、我々現代人でも共感できそうなストーリー仕立てになっているのに対して、死神永生は色々なところを超越してしまっていて涅槃にたどり着いてしまったような感覚がある。そんなストーリーなので、まったく良くわからない人もいるかもしれないが、個人的にはこのSF感丸出しの展開は大変好みで、生とは、死とは、宇宙とはなにかみたいなことを考えながらやっぱり夜も寝られない日々を送っていた。○○に落下し続ける科学者の話だったり、空間がアレするような話だったり、本当に面白くてこれはとんでもないものを読んでしまったという感じがある。宇宙の話が好きな人は是非読んで欲しいSF作品だ。

いやあ、SFって本当に良いですね。

【読書メモ】廃園の天使IとIIを読んだ

早川書房のセールがKidleストアでやっていたため、Amazonの欲しいものリストに入れたままずっと買っていなかった、『グラン・ヴァカンス 廃園の天使 Ⅰ』と『ラギッド・ガール 廃園の天使 Ⅱ』を買って読んでみた。ずっと欲しいものリストに入っていたため、何故入れたのかは覚えていない。何故だろうか。初めに感想だけ言うと、グラン・ヴァカンスはSFと言うよりも文学作品っぽくてあまり面白さは分からなかったが、ラギッド・ガールはこれでもかと言うほどにSFをしていて非常に楽しめた。グラン・ヴァカンスは読むのに1ヶ月かかったが、ラギッド・ガールは2日で読み終えてしまった。しかし、グラン・ヴァカンスの内容があるからこそ、ラギッド・ガールの面白さがあると思うので、読む場合は両方読んで欲しい。

良質なSF作品は科学の皮を被った哲学作品である事が多く、ラギッド・ガールは意識と生命に関する哲学を主題としている。最近はAIの流行から、人工生命の人権なども語られるようになってきており、人工知能がシンギュラリティを超えるとの言説も多くなっている。ラギッド・ガールもそれらの例に漏れずに人工知能や人工生命の意識、人権を主題としてはいるのだけれど、それらとひと味違うのは、シンギュラリティをどうやって超えたかの説明を科学的な理由づけで説明しているからである。多くのSF作品では、人工知能や人工生命はどうやって生み出されたかという説明は無しに、とりあえず可能になったという前提で話が進む。しかし、それらはAI全盛の昨今ではどうしても似たり寄ったりの説明になってしまうが、本作では技術的な壁とその解決策が空想ではあるが科学的に解説されていて大変面白かった。

人間のシミュレーション

人間の意識を生み出す最も自明な方法は、人間の細胞の一つ一つの動きをすべてシミュレーションすることである。しかし、これには以下のURLにあるように、計算量の問題が出てくる。

Teleportation: will it ever be a possibility? | Technology | The Guardian

この記事によると、人間は約32兆個の原子から成り立っており、それを表すためには2.6 \times 10^{42}ビット=\frac{2.6 \times 10^{42}}{8}バイトの情報量となるらしい。2^{10} = 1024バイトが1KiB、2^{20} = 1024KiBが1MiB、2^{30} = 1024MiBが1GiB、2^{40} = 1024GiBが1TiBである。ということは、人間の原子を丸々シミュレーションするためには、272848410531878471374511718750TiBもの情報量を扱わなければならない。

スパーコンピュータ富嶽の性能は公称415.53PFLOPSなので、秒間415.53 \times 10^{15}回の浮動小数点演算を行える。1回の計算で8バイトのデータに対しての計算を行えると仮定すると、\frac{2.6 \times 10^{42}}{8 \times 8 \times 415.53 \times 10^{15}} \approx 90246191610714027868024\approx 2859729244641988年あれば、人間シミュレーションの1ステップ分を行える計算になる。

意識や人間のシミュレーションを行うには、この計算量の壁をどう乗り越えるかが重要になる。ちなみに、漫画GANTZでは人体の転送を行っているが、あのレーザーの転送速度は異次元の速度であり、エネルギー消費量も異次元である。肉体転送レーザーの技術に比べると、GANTZから与えられる武器はおもちゃ以下の性能しか無いと言って良いだろう。転送レーザーに使っているエネルギーを転用すれば、すべての問題が解決すると思われる。

話がそれたが、意識のシミュレーションは現状では本当に難しく、おそらく量子コンピュータで作られたコンピュータが一般的になるレベルにまで科学技術が進展してようやく先が見えるかどうかぐらいだと思う。そのような状況になるのがいつかは分からないが、その時にどうやって解決するかは、ラギッド・ガールを読むことで妄想することができ、大変面白かった。続編も執筆中らしいので期待したい。

【読書メモ】ビット・プレイヤーを読んだ感想

グレッグ・イーガン「ビット・プレイヤー」を読んだ。グレッグ・イーガンはSFの巨匠らしく、いろいろなジャンルのSFを書いているらしい。最近、ちまちまと短編SFを読んでいるが、本作はシンギュラリティを超えたストーリーの作品が多かった。シンギュラリティを超えるというのはつまり、ソフトウェアに意識が芽生えたり、人類の精神をデータに変換して物質に復元したり、恒星間航行が可能になるということである。本書の感想は、全体ではイマイチに感じたが、最後の「孤児惑星」は面白かったというの正直なところである。

有人での恒星間航行を行う際にはいくつかの方法がある。

ワープはスターウォーズシリーズなどで用いられる方法であるが、やや安直すぎる。ワープ(超高速航行)を実現する方法として、アルクビエレ・ドライブという方法が知られている。アルクビエレ・ドライブを簡単に説明すると、宇宙船の後方にビッグバンを発生させ、前方にビッグクランチを発生させ時空をゆがませて進む方法である。ビッグバンやビッグクランチを継続的に発生させるって何回宇宙創造するつもりだよとは思う。しかし、よく考えてみると、実は、我々の居る宇宙というのは、高次の存在者がアルクビエレ・ドライブで発生させた宇宙、つまりワープ中の燃えかすという可能性も出てくる。

精神のデータ化は本作で頻繁に出てくる。しかし、精神がデータ化できてしまうと、死やら個人のアイデンティティーやらそういうものが崩壊しているのではという気になる。死んだとしてもバックアップはあるし無茶も出来る。精神のデータ化やバックアップが出来る作品はままあるが、比較的多くの作品で、1人格は同時刻に唯一の物理的存在しか登場しないことがままある。本作品でも比較的容易にバックアップが稼働できるという描写があるが、バックアップ出来るならクローンを作れば良いのにと思いながら読んでいた。空の境界蒼崎橙子も同じく同時に稼働は出来ないが、こちらは魂は1つとかいう理屈づけがされていたように思う。しかし、精神のデータ化はまだまだ出来そうに無いなとは思う。精神をデータにするには、個人的には脳だけではなく、数億か数兆かわからないが、いわゆる5感と言われるセンサ類もデータ化する必要があるのでは無いかと思っている。脳が精神なのでは無くて、精神はペリフェラルも含めた分散アーキテクチャになっているのではないだろうか。

箱船はいわゆるシドニアの騎士方式で、なかなか現実的だと思う。箱庭を実現するためにはいくつか超えなければならない課題がある。1つめは生物の循環系をクローズドな環境で再現できるかという課題である。実は、これについては過去にアメリカで、バイオスフィアと呼ばれる研究施設が設立されて研究されいたが、この研究は見事に失敗している。最近ではイーロン・マスクが火星移民をうたっているが、少なくとも、まずは地球上で人工閉鎖生態系を完成させなければならないだろう。2つめは宇宙空間における巨大建造物である。箱船に、はじめに最低1000人規模の人間が乗り込むとしても、数百年の航行(もっとか?)と人口増加を見据えて、1万人は収容可能な規模がほしい。ガンダムのコロニーは数億から数十億人規模を収容可能だそうだが、あれだけの巨大建造物を作る技術は我々人類にはまだ無い。しかも、これだけの巨大建造物を作成しても、たかだか数十億人しか収容できないため、増えすぎた人類が宇宙に移民したところで、すぐに人口問題が噴出するのは火を見るより明らかである。ただ、箱船は超科学的な発展が無くとも、エンジニアリング的な試行錯誤を重ねていけば到達可能には思える。

コールドスリープは亀や金魚とかなら可能だろうが、人類で行うのは現状では厳しいそうだ。コールドスリープはあまり詳しくないので、詳細は適当なサイトを見てほしい。

ビット・プレイヤーはカジュアルに超技術が出てくるため、色々と思いを巡らせて読んでいた。しかし、恒星間航行や精神のデータ化はさすがにしばらくは実現しないだろうと思う。個人的な予測では、まず宇宙か月あたりに金持ち向けのホテルが出来るのでは無いかと思っている。と思ったら、構想中であった。

www.cnn.co.jp

短期滞在なら可能な事は既に実証済みだし、これぐらいは出来るだろうが、凄いなあ。

【読書メモ】哲学とは何か、ゴルギアス・テーゼ

いま、「哲学とは何か」という本を読んでいるのだが、この前半部分に出てくるゴルギアス・テーゼについて理解が難しかったので、自分なりの解釈をメモしておこうと思う。実は、「哲学とは何か」はまだ前半部分しか読んでいないが、ゴルギアス・テーゼを理解しないことには先に進めなそうなので、少し考察してみる。

 

哲学とは何か NHKブックス

哲学とは何か NHKブックス

 

 

ゴルギアス・テーゼ

ゴルギアス・テーゼとは以下の3つが成り立つという主張のことである。

  1. 何物も存在しない
  2. 何かが存在したとしても、それを認識できない
  3. 何かを認識できたとしても、それを言語化できない

これの意味することは明らかだが、これの証明(と言われているもの)は不明瞭で、本書でも詳細は語られていない。Webを検索してもいまいちな説明しか無いため、もう少し形式化して考えてみようと思う。

形式化

まず、ゴルギアス・テーゼの形式化を考えてみる。おそらく以下のようになると思う。

E(x): xは存在する

R(x): xは認識できる

L(x): xは言語化できる

  1.  \forall x\ \neg E(x)
  2.  \forall x (E(x) \rightarrow \neg R(x))
  3.  \forall x (R(x) \rightarrow \neg L(x))

述語を決めて、限量子で量化しているだけである。

何物も存在しない

1のテーゼの否定を仮定する。つまり、次を真と仮定する。

 \neg \forall x\ \neg E(x) = \exists x E(x)

何かが存在するとする。その何かは無から生まれたか、別の何かから生まれたかのどちらかである。無からは何も生まれないので、無から生まれたのは誤り。別の何かから生まれたとすると、その別の何かの誕生を証明しないといけない。別の何かの、そのまた別の何かのという論法は無限遡行と言って、これは論理的な誤りであるとされる。というわけで仮定は誤り。背理法よりテーゼ1は真となる。

無限遡行はいろいろな場所に出てくる。例えば因果律の説明で、因果律を認めるためには、物事の因果の因果の、そのまた因果をたどることが出来る必要があるが、これは無限遡行に陥る。あるいは、ある地点では原因が無くても結果が起きる必要がある。よって、因果律は認められない。

何かが存在したとしても、それを認識できない

次に2のテーゼを証明してみる。

 \forall x (E(x) \rightarrow \neg R(x))

なので、この否定が真であると仮定する。つまり、

 \neg \forall x (E(x) \rightarrow \neg R(x)) = \exists x\ \neg (E(x) \rightarrow \neg R(x)) = \exists x (E(x) \land R(x))

となる。しかし、テーゼ1より何物も存在しないのでこれは誤り。よって、背理法よりテーゼ2は正しいと証明された。テーゼ3もほぼ同じように証明される。

梵我一如

ゴルギアス古代ギリシアの哲学者であるが、古代インドのウパニシャッド哲学の梵我一如も大体同じようなことを言っている。梵(ブラフマン)は宇宙の普遍的な実在で、我々には認知できない。我(アートマン)は自身の中心的な実在であり、我々自身では認識できない。結論だけ言うと、梵と我は同じであるというのが梵我一如の教えとなる。

ギリシアとインド、全く違う土地だが、同じような結論に至っているのは面白い。ただ、どちらも我々のような凡夫にはよくわからないというのが大きな特徴である。

宇宙は無限か存在しない

無限遡行が問題なのは、この世が有限だからという前提があるからのように思える。我々の宇宙が誕生したのは138億年前と言われているが、ではこの宇宙は何から生まれて、その何かは何から生まれたかのという疑問が残る。つまり、何物かが存在する、あるいは因果律が成立するためには、多元宇宙論的な宇宙が存在して、さらにそれが無限に続く存在でなければ説明がつかない。

因果律はともかく、何物も存在しないというテーゼは受け入れがたい。我々が存在するという証明を残したのは、かの有名な「我思う、故に我あり」を残したデカルトだが、少なくともデカルトの言うように何物かが存在するならば、宇宙は無限ということになる。

以上、つらつらと書いたが単なる感想なので笑い飛ばしていただければと思う。ソワカ

SFはいいぞ

最近、プログラミング系の本しか読んでおらず、少し息を抜きたいと思いSF本を買って読んだりしていた。SF本と言っても、気軽に読める短編集である。SF短編集といえば、小学生の頃に星新一をよく読んでいたのを思い出すが、今回読んだのは複数著者の作品が収録されているため、アンソロジーというやつになる。最近はこのアンソロジー本が結構あるようでありがたい。読んだ本は、「日本SFの臨界点 怪奇篇 ちまみれ家族」と「ベストSF2020」である。

 日本SFの臨界点 怪奇篇 ちまみれ家族

 「日本SFの臨界点 怪奇篇 ちまみれ家族」で個人的に特に気に入ったのは、中島らもの「DECO-CHIN」と、山本弘の「怪奇フラクタル男」である。DECO-CHINは幸福とは何かという普遍的でよくあるテーマが題材だと思うが、オチが飛び抜け過ぎていて呆気に取られてしまった。最後にタイトルの伏線を回収するのだが、まさかまさかの回収の仕方であった。怪奇フラクタル男はフラクタルを題材にした話で、これもまた突拍子のない発想で、どうやったらこんな話が思い浮かぶのかと、あまりに驚いた。

フラクタルというと中学生ごろにフラクタルに興味を持って色々調べていたのだけれど、その頃専門書を買って読んでも全然理解できなかった。中学生の自分にはハウスドルフ次元は難しすぎた。その後、高専に入ってプログラミングが出来るようになってマンデルブロ集合やらを描画していたのを思い出す。最近もRaspberry Piマンデルブロ集合を描画していたため、技術は一度身につけると色々と役に立つもんだなぁと思う。

他の話も普通に面白いのだけれど、この2作はぶっ飛び方が凄くて衝撃だった。息抜きで読んだけれど、やっぱりSFは面白いなあと再確認。

 ベストSF2020

べストSF2020 (竹書房文庫)

べストSF2020 (竹書房文庫)

  • 発売日: 2020/07/30
  • メディア: 文庫
 

  「ベストSF2020」で個人的に特に気に入ったのは、草上仁の「トビンメの木陰」、草野原々の「断φ圧縮」である。ドビンメの木陰は最後あたりまではわりと普通かなと読んでいたんだけれど、最後の落ちあたりがとても綺麗に纏まっていて大変感心した。手法としてはオーソドックスなのかもしれないけれど、こうきたかぁ。うまいなぁ。と夜布団の中で読みながらしきりにうなづいていた。断φ圧縮は怪奇フラクタル男に通じるところがあるような気もするが、こちらはフラクタルではなくカルノーサイクルが題材である。

カルノーサイクルは熱サイクルで、断熱圧縮、等温膨張、断熱膨張、等温圧縮を繰り返すサイクルである。熱機関やエンジンは高専の当時に必修科目であったのだが、全く興味が持てなかったため現在でも理解が曖昧で、作品を120%楽しめなかった。悔しい。フラクタルは必修どころか選択でもなんでもなかったがよく覚えているのに。将来SFを楽しむために、ちゃんと勉強はしておくもんである。

というわけで、2冊を読んだが存外に面白かったので、これからも定期的に買って読もうかなと思った次第です。それでは、皆さん良いSFライフを。

長門の存在証明

何かが存在するかどうかということを突き詰めて考えていくと、何も存在しないような結論に思い至ってしまう。例えば、いまこれを読んでいるあなたは、実は脳みそが取り出されてビーカーに保存されている状態にあり、その脳みそに刺された電極から刺激を受け取ってあたかもこの世界が存在しているように感じているだけかもしれない。古にはかのデカルトも同じようなことを考え、その結果、我思うゆえに我ありという有名な台詞を残した。

デカルトは次のように考えた。私が考えるということは、バーチャルかどうかはわからないがとにかく存在するということである。私は考えないようにしようとすればするほど、考えるということについて考えてしまう。よって私は考えるということであり、つまり、私は存在する。

俺の嫁問題

このように、存在するかどうかを突き詰めて考えていくとなかなか難しい問題にぶち当たる。例えば、長門俺の嫁(若干古いか)などと、存在しないはずのキャラクターに対してあたかも存在するように愛着を抱くことさえある。たしかに長門有希情報統合思念体であるため、我々の知らぬ間に至るところに偏在しているのかもしれない。しかし、それはあくまでも長門が存在するということを否定できないだけであり、その存在を証明するわけではない。

涼宮ハルヒの憂鬱 長門有希 (1/8スケールPVC塗装済み完成品)

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  • 発売日: 2007/07/30
  • メディア: おもちゃ&ホビー
 

ところで二次キャラ以外にも、実際に存在はしていないフィクションでバーチャルな存在はある。それは長門らと同じように完全にバーチャルな存在のはずだが、世の中の誰もがその存在を信じている。それは何かというと、1つは国でもう1つはお金である。

国は別に物理的法則によって存在しているわけではなく、人間が恣意的に想像したバーチャルの存在である。しかしあたかも人々は国というものが存在するかのようにふるまい、あまつさえ国が原因で殺し合いまでしてしまう。お金も同じで高々紙切れ、電子データになにか価値があるかのように皆が振る舞っている。

国、お金、これらは完全にバーチャルな存在であるのに、あたかも実在するかのように皆が考えているため、これはもう実在すると言ってよいのではないだろうか。とすると、同じ理屈で長門も存在すると言ってよいのではないだろうか。いや、これはもう存在する。間違いない。

フィクションのお断り

いやしかし、流石に長門が実在するとはちょっと受け入れがたい。長門も国もお金もやはり仮想的な存在ではないだろうか。

ところで、作り話に対するよくある断りとして、「この作品はフィクションであり実在の団体及び人物とは一切関係がありません」という文章があるが、実在の人物というのはわかるが、実在の団体とは一体何を意味しているのだろうか。団体とは国と同じで極めて恣意的でバーチャルな存在なので実在の団体という文言はおかしいのではないか。

ということはやはり、国やお金は存在すると考えるしかないだろう。当然長門も存在する。でもちょっと待てよ、とすると作中の団体、例えばSOS団も実在するということにはならないだろうか。そう考えると、「実在の団体とは関係ありません」が何を言わんとしているのかますますわからなくなってしまう。SOS団は実在するし関係あるだろ。
実在とは一体…ウゴゴゴ…

というような感想を以下の本を読んで抱いた。

日常世界を哲学する 存在論からのアプローチ (光文社新書)

日常世界を哲学する 存在論からのアプローチ (光文社新書)

  • 作者:倉田 剛
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2019/08/20
  • メディア: 新書